ブログ「いらけれ」

「特別編-対話のボイスメモ#1:ボイスメモを公開する。」

なんか違うんだよなって思ってる。朝日新聞の書評を載せてたサイトのリニューアルされたデザインに対して。丁寧な暮らし的というか、IKEAの家具的なというか、J-WAVEの昼間的なその色合いが、悪いと言いたいわけではない。ただ、それはそこにあればいいのであって、掲載されてるシリアスな書評とマッチしていないと思う。そもそも「好書好日」というサイト名だって、自分の暮らしをよくする、役に立つから本を読むというような態度を称揚してるようで、好きじゃない。いいですか、本とはもっと危険なものでもあって、もっと大きなものでもあって……と、途端に繰り言感が増してしまったので止める。
「BBQの王様」って名前がCSの番組表で気になったから、そのチャンネルに合わせて待ってて、始まったら「今日は豚の丸焼きを……」って、頭はなかったけど、ほぼ丸の豚に太い棒が刺さってて、自動回転機で回されて、焼かれてる。嘘やん、って思った。モップでソース塗ってるし。サブタイトル「リアル・アメリカン・バーベキュー」ってなってるけど、これがリアル・アメリカンなのか。焼きあがると驚くほど皮がパリッとするらしい、こっちは一生焼きあげねえけどな。最後は焼きあがった豚を、たくさんの人(スタッフ?)で食べて、番組が終わった。王様の番組はすごかった。
こんなんで、どうでしょう。書くことがないから。だって今日は、本読んでたら、眠くなって10時間寝てしまって、ずっと一日何もない。まともに本も読めない。人生が少し違えば、研究者や教授になれていたかな、なんて想像するときもあったけど無理。だって、何読んでも寝るし、頭に入ってこないんだもの。自分の身体のままならなさ、自分ですらままならないことが寂しい。
日中は寝てたけど、そういえば早朝にはサッカーを見ていた。大げさに痛がったり、軽くぶつかっただけで派手に転倒したり、「芝居を見たければ劇場に行く」@木村浩嗣なわけだけど、しかし、選手が倒れたときにはプレーを中断するためにボールを外へ出し、中断明けにボールを入れる側は、出したチームへボールを返すというマナーがあるんだけど、そのマナーは守ってておかしかった。そこで、ボールを返さず攻めるというマナー違反はしたくないが、PKをもらうために、わざとすっ転びはするというのは、あまりに滑稽。
夕飯は素麺で、素麺の薬味というか具?の、ベストの布陣についてはいつも考えていますよ。ただ考えているだけで、実家だから、ショウガ、しそ、錦糸卵や、あと、細く切られたキュウリとかハムが、家では出てくるんだけど、それをそのまま入れて食べているけど。なんなら、食卓に並んでいるキムチを最後に入れちゃったりして、ずるずる食べながら、あー冷麺って食べたことないけどこんな感じなのかなーって、ずるずる食べたりする。そういう行きずりの関係を、素麺とは結んでいる。

今揺れられても、自分が揺れているのか、この家が揺れているのか分からない。大きくはなかったが、確かに地震だった。ひどい大雨が日本に降っていて、心を痛めている。平穏な日常には感謝していたい、湧き上がる激情には反抗していたい。

ブログ「いらけれ」

ブログを毎日書くって決めたときから、僕は僕に何かを言わされている。大して興味も意見もない、黙っておいた方がいい事柄について、空白を埋めるために、ご意見番のごとく文章を書いているのだ。黙っておいた方がいいのに!
僕はこうやって、愚かなことを自分に課して、愚かなことをする自由を行使し、自由を謳歌している。愚かなことは、おそらくどんどんできなくなっていくだろう、仕組みによって。スピードを超過できない、壁にぶつかれない自動車が生産されていく。こんな恥ずかしいブログは、「審査の結果公開できません」と、AIに言われるようになるかもしれない。
しかし、愚かしさが、人を見せしめに殺すような愚かしさならば、僕たちの愚行権は取り上げられてしまえばいいのかもしれない。人間が、それまでは恥ずかしいからやらなかったことを、躊躇なく行うようになっていて、本当に恐ろしい。最低限のモラルの最低が下がっていく。せめた僕だけは、恥ずかしくないように生きたい。

私は回想の中に生きている。エムバペに似た同級生の男の子。枯れたあじさいの隣に咲き始めたひまわり。初めて行った旅行先の金沢で食べられるようになった蟹。笑ってたからつられて笑ったら「何笑ってるんだ」と怒り出した上司の男。印字のほとんど消えたパスモ。運動会に向けて練習した体育の時間のバンブーダンス。倉庫管理の主幹システムに唯一アクセスできるパソコンのパスワード。パスワードが書かれたポストイットが貼られていたパソコン。ずっと不登校だったその男の子が、学校の中庭にスクールカウンセラーの先生といたあの日のことも思い出した。本山君が見つけて、みんな廊下の窓に集まって手を振った。


「ナジョモサジミダチェツ落ち着くわ~」って、別に呪文を唱えているわけではなくて、メンバーの頭文字を年齢順に並べたもので、これはメンバーもよく使ってるんです、何かの順番を決めるときとかに。上の写真の並びもそうなっているでしょ?年齢順ってとこが韓国っぽいよね。この並びの収まりが良すぎて、他の並びだとしっくりこないくらいだ。
この記事が公開されているころには、ニューアルバム「Summer Night」も、タイトル曲「Dance The Night Away」のMVも公開されているのでしょう。今の僕はと言えば、イメージ写真(この記事を見てね)の、水着の露出度で事務所の方針を確認したり、「Dance The Night Away」のティザー動画の目覚めるところで、「SIGNAL」のMV冒頭の逆に気を失うシーンを思い出したり(明らかに意図してつなげているよね?)して楽しんでいる。アイドルファン、新曲公開前が一番楽しい説。
新しい曲、新しいMVについてのコメントは、公開された後、未来の僕が追記してくれるはずだ!!よろしく!!

追記:見ましたよ~

TWICE(트와이스) “Dance The Night Away" M/V

この全然アガらない感じ!!
割と激しいダンスと、テーマである夏の、その暑さと反対のクールネスが曲の中にあって、この単純なアゲじゃない感じがカッコイイんだという勘所を、しっかりと抑えていくプロデュースサイドの手腕に惚れている。
ともかく、僕の意見なんていうのはどうでもよくて、楽曲の詳細な分析をしてくれる方が出てきてくれることをマジで望んでいる。

ブログ「いらけれ」

2018/07/08 今日のボイスメモ
わたくしのやっているポッドキャスト「ボイスメモを公開する。」が更新されました。内容としては、面接を受けた企業をばらそうとして止めたり、ブログの記事の裏側をばらしたりしております。途中、声が小さくなっているのは、遠くのフェンス越しに人影が見えたからです。
次回は特別回になる予定。お楽しみに!

いや本当に、ブログは面白くなくてもしょうがないというか、ブログなんてつまらなくてナンボだから、今日見た「WOWOWぷらすと」の「ハワイってホントにいいの?」が面白かったって書いちゃう。サイトウ"JxJx"ジュンさんのプレゼンテーションと表現力!雄叫び、バスクリンというパワーワード。すごーく、すごさが伝わる。まあ、僕は26年の人生で、25年11ヶ月東京にいるような奴なので、一生行かないだろうけど。
大きな霊園には電灯がほとんどないから、日が沈んですぐ散歩すると、今の時期空がとても青。見たこともないほど。セミが鳴いている。ポッドキャスト収録が厳しくなるなと思う。
返ってくると、王位戦の第一局が終わっている。棋譜コメントから引用すれば「平成、最後の夏。平成生まれ同士のタイトル戦が、初めて実現した。」わけだけど、非常に熱戦で良かった。それは間違いなく、これからの将棋界の新しい地平を拓いていく戦いだった。どこも新しい世界になっていく。
ベンチャー的な?意識高い的な?企業から面接の合否が来ないことについて、最初は怒っていたんだけど、もうその段階は過ぎて"だからか"って思っている。つまり彼らの本質は、夢や希望ではない。それを高らかに謳うような宣伝文の、ポエムの、つまり言葉の空疎さなんだと。だから、足元の色んな物事が抜けてしまうんだと。なんならスラム街にクラウドファンディングで行こうとしてしまうのだと。まったく、そこにいる相手が、向こう側にいる人間が見えていないんだから、困ったものだ。
『偶有からの哲学』を読み終わる。僕が「変容するカツ丼」の冒頭で書いたことと同じこと言ってるところ、あるよね?自分と哲学者を同一視するって、僕の頭がおかしくなってしまったのかな?まー、全体的に言ってることはなんとなく分かる。消費社会まずいよねー、というのはそうだろうけど、じゃどうすりゃいいのとは思ったな。……さ、ホイジンガ読もっと。

「荻上チキ・Session-22」「シリア・イラク・南スーダン……『国境なき医師団』の看護師が見た紛争地医療のリアル」
「自分が大事、自分のことだけ考えたい」って、それは当たり前だし言明するのももちろん自由だ。でも、その考え方さもしいよね?こういうの聞いて恥ずかしくない?と思う。自称リアリストたちが、コスト計算して放つ言葉が、さもしい、恥ずかしいって世間から見られないことが、結局ずっと嫌だってことなのかもしれない。

ブログ「いらけれ」

東京03第20回単独公演「不自然体」初日へ、友人の誘いで。ちょっとした感想を書きたい(ネタバレ?は無し)。
90年代終わりから00年代頭の「お笑い」シーンは、そのメインの客層で、例に漏れずハマっていた姉の影響で、僕の中に確固とした位置を占めていて、そこで受けた英才教育が、後のラジオ好きからの、こっち(サブカル?)へ曲がっていく原因だった。「WANTED!」火曜日はバナナマンの担当で、その流れで聞いていた水曜日は菊地成孔と大谷能生の担当。つまり、そういうことだ。だから、「オークラ」「ニイルセン」といった名前を、その公演の最中に見つければ、それなりに感慨を覚えたりするのだった、新国立劇場(この大きな会場でやっているのもすごい)の席に座りながら。
中年男性3人という限られた狭い条件の中で、コントごとに様々なシチュエーション(彼らの言葉で言うなら「設定」)を発明し、幅広い客層(小さな女の子も、おじいさんも会場で見かけた)に向けて、ポリティカルコレクトネス的に難しいテーマを、その微細な表現力で易々と乗りこなしていく様には本当に驚かされる。笑いを外さないこの素晴らしいコントたちが、シティボーイズなどから流れる関東のコント史、あるいは現代口語演劇史といったものに、どのように接続され、どのような位置を占めるのか、しっかりと語れるほどそちらに詳しくないのが口惜しいほどに、すごいことをやっていると思った。
彼らのネタにするものに、現実から遊離したものはなく、唐突な気まずい状況や、突飛な発言をする人というのは、私たちの周りにいるばかりではなく、まさしく私たちの姿でもある。つまり、そこに私たちは、私たちを見るわけだが、しかし、私たちの世界には、あのコントのようなひねった展開も、大声のツッコミもない。つまり、おかしな現実は回収されないのであって、そうやって回収されない人生の断片(=もやもや)は、私たちに残存し、血管を巡っている。東京03は、そういった誰もが持つ人生のもやもやを、お笑いの文脈の中に取り込み、完璧に消化/笑いに昇華していく。彼らを見て笑うとき、掬われているのは私たちの過去であり、記憶だ。つまり、東京03=デトックスなのではないか、と思った。

こうやって真面目に、技巧を凝らして書くことが恥ずかしい。やっぱし、僕にはライターなんて無理なんじゃねって、ライターとして働き始める前から怖気づいてしまう……。もうちょっとしたら入社するってのに。
こういう自意識みたいなところから、一歩先へ行くために、このブログはあって、つまり訓練でもあって、そんなものを読む人の身にはなれないというか、基本的には読まなければいいものである。

教えたことを覚えていないということがお互いにあって、僕たちは会話に内在しているつもりで、モノローグに引っ張られているのかもしれないと思う。「話を聞きましょう」というありがちなスローガンを、実際的に意味のある言葉にするのは非常に難しい。語りたいことはあっても、語られたいことは、こちらの想像もつかないエピソードだったりするわけで。「聞きたいことを聞かせろ」という尊大な態度を取らず、どんなことでも聞く、聞くことの受動性へ耳を開いていくこと。これが重要だとは分かっていても、そこへ向かう方法は分からない。


鈴木英人っぽいイラストがパンフの表紙絵