ブログ「いらけれ」

仕事も辛いが、仕事のことを書けないのが辛いな。今日は、変な人として変な行動をする仕事をしてきたよ(これ以上は何も言えない……)。周りからの目が、仕事だと思えば気にならないなんてことはコレッポッチもなかった。とても恥ずかしかった。

「佐藤大のプラマイゼロ」が更新されていて(#112 ニホンのキョコウ)とても嬉しい。今一番好きなポッドキャストかもしれない。itunesを使ってない人もrssを使えば(この言い方で正しいのか?)mp3を拾えるんだけど、それはなかなかハードル高いのかなとも思ったり。サイトに音源のダウンロードリンクがあったりしたらなあ。もったいないなあ。
番組内で紹介されている『空想映画地図[シネマップ]』も『ホラー映画で殺されない方法』も面白そう。世界のぶっ壊れ感×フィクションの世界に対するリアリティの変容が導くのは、この〈現実〉こそを〈虚構〉だと考えてみるべきだということなのであり、国家も金もSNSも、突き詰めて考えれば全て架空なのである。で、そんなことより「ある日、月が七つに割れるんすよ」という大さんの発言が面白すぎた。みんな聞いてー。

大声で「マルクス主義が~」とか、「全共闘世代の~」とか語っているおじさんを居酒屋で見て思ったのは、そういう話ができる相手がいてイイネ!ということ。僕も、最近見た映画の批評とか語りたいです。そういえば新宿の東宝で、僕は帰るところだったのだけれど、並走するエレベーターで『カメラを止めるな!』を見たと思しきお兄さんが、隣のお姉さんに向かって「三谷幸喜の~」って話しかけていて、それもうらやましかったな。僕も友達が欲しいって話か?

新宿で本を買うなら、僕の行動範囲的に考えてブックファーストしかないんだという発見。読みたいものがあって、500円の図書カードもあって、気を抜いたらそれを買ってしまうところだったが、金欠を思いだして踏みとどまった。読む時間もないだろうし。お金も時間も足りないよ。本当に全てが足りないよ。僕はすべてが足りない。仕事をしていると、僕は本当に足りない奴だって思う。

なんか知らない人との人間関係の嫌な感じに巻き込まれる夢を見て起きたけど、でも、時計を見たら久しぶりに長く眠れたみたいで良かった。ここのところ、落ちるように、腕時計も外しそこねて眠っていたのだけど、時計を外して床についたのが功を奏したのかもしれない。
時計のベルトを見るといつも思うのは、フィクションの中の囚人が鉄球を足首に繋がれているあのベルトのことで、これは私を「時間」という鉄球に結びつけるためのものなのだなと思う。誰かをではなく、自らを縛りつけようとする私たちは、おそらく愚か者なのだろう。

「なんか氷の解けたアイスティーみたいなブログですね、薄いってことです」
はい。それはその通り。でも、書かなければ忘れてしまうようなことだからさ。過剰に面白いくらいなら、ほっといたら忘れてしまうような、そんな些細なことを書きたいんだ。言い訳ではないよ。

ブログ「いらけれ」

「2018/08/23 今日のボイスメモ」
はいはい、注目注目~。私のやっているポッドキャストが更新されてますよ~。
今回は、途中で人の姿が見えたり、声が聞こえたりして、ビクビクしながらとってます(ビクビクしているところはカットされていますが)。
映画についてなど、ペラペラしゃべっていますが、内容がそれまで考えていなかったようなことで、その場の思いつきでしゃべっているところもあって、しゃべる自分にビックリしました。コンシャスなつもりでも、自分って結構未知だよね。
面白いかどうかは、聞いて、あなたが判断してください。面白くなくても、絶対に聞いてください。お兄さんとの約束だぞ!

世界の実相は分からない。研究をすることは本来的に冒険だ。丁寧に探っていけば、新しい世界が到来する。
一行先が分からない。文字を追うことは本来的に冒険だ。丁寧に辿っていけば、新しい世界が到来する。
分け入る意思がない者には、しかし、これらの豊かさは理解できない。
以上のことが『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』を読んで分かったこと。つまり、「蒸気船ウィリー」を理解するためには、蒸気船とは何かから始めないといけないというような。

世界が、力の横溢、暴力の反乱の時代を迎えていることは、誰の目にも明らか。それは僕にも分かっていた、でもその理由は分かっていなかったのだけれど、僕たちが合意を諦めたことが一つの要因ではないか、と思い始めている。
異なる出自の、立場の、能力の……とにかく自分と違う人と話し合って、説得して合意することの困難さが、はっきりと見えてしまったインターネット以降では、僕たちはそれを諦めている。そうなれば、意見の違う人を説得できないのであればどうするか、力で付き従わせることになるだろう。企業にはクレームを、馬鹿には炎上を(国民には法律を!)といった具合に、相互理解なんて目指さず、脅して屈服させようというわけだ。
今は何についても、僕たちの連帯の理由は、力を持って誰かを脅すこと以外にはないように見えるし、おそらくそうなのだろう。この時代に、何か有効なことを言おうとするならば、つまり僕は、愛と理想の連帯と革命は可能か?ということをテーマにするべきだ、ってわけだね。

本屋に入って、狭い店内ですれ違うおじさんの、その背中に付いた見たことのない小さな赤茶色の虫を見て、数週間前の、駅で前を歩くおばさんのトートバッグの中に飛び込んだ小さな蛾を思い出した。赤茶色の虫は落ちたし、蛾は飛び立った。だから、彼らの関係を知っているのは僕だけだ。

ここ数週間は濃すぎて、書くことはあるけれど時間がないという感じだ。改めて、働きながらいろいろな本を読んだり、映画を見たりしている人を尊敬する毎日で、そういう人は超人なんじゃないのって、そう思う。僕は眠らないとダメな体質なので、そこは削れないから、まあ、少ししかない手元にある時間を、精一杯楽しくすごしていくしかないのだろうな。

ブログ「いらけれ」

映画館の暗闇で、強制的に見せられる予告などの映像は、見ている私の中に批評を起動させる。携帯電話の電源も落としているし、どうしようもなく見るしかないし、見ながら何か考える以外にやることがないし。「何かに出会ってしまって、考えるしかなかった」ということこそ、批評の始まりだと思うので。だから、みなさんも映画館に行って、批評を始めましょう。

で、僕が映画館で見たのは『ペンギン・ハイウェイ』だったのだけど、これが良かった。前の週に『未来のミライ』を見て、アニメーションについて考えていたからなおさら。「アニメーションにしかできないこと」というのは、CGがこれだけ進んだ現在、何を指すのか分からないけれど、アニメーションだからこそ輝く表現というのは間違いなくあって、その画のスペクタクルこそアニメーションに期待することだろう。画面がそんな表現で溢れているばかりか、それが物語にとって重要な役割を果たしている『ペンギン・ハイウェイ』は、文句なく素晴らしい……かというと、結構ストーリー的に強引なところとか、設定的に無理があるところもあると思うんだが、そんなの最終的には気にならず、登場人物が愛おしくなって応援したくなる映画になっているというのは、『未来のミライ』との大きな違いだし、その違いをよく考えてみる必要がある。声優も、特に北香那と蒼井優という、本職ではない二人も素晴らしい(アオヤマ君は少年の声にしか聞こえない!)し、エンドロールでかかる宇多田ヒカルの曲もピッタリだし、ぜひ、予告を見ずに(予告で流れるあるシーンは、できれば映画館の大きなスクリーンで初見で見た方がいいと思う)、僕を信じて見に行ってほしい。ちなみにこの映画には「なんだ猫か」シーンがあって、最初はお約束に笑い、次には泣いてしまった。そこにも注目だ。

しかし、良いということを書く、良いという理由を考える方が、批判するよりよっぽど難しい。構造的な欠陥は顕在的だから、誰にでも指摘できるけれど、感動の根拠は潜在的だから、言葉にするのは困難だ。
僕はもっとしっかりと、良いものを良いって書けるようになりたい。僕は世界を、豊かにするためにこれを続けているのだから、僕が良いと書くことによって、僕の思う良いものを世界中の人に触れてほしい。そのためには信じてもらわなければならないし、動いてもらわなければならない、ただの文章で。そのためには力が必要だ。力を持つということは恐ろしい。でも僕は、力を持ちたい!……「後のヴィランである」感が出てしまった。

サマースラムがどうとは言わないけれど、やっぱりNXTのテイクオーバーが面白かったね。
プロレス、主にNXTの大きな大会を見ていると、長いこと見ているにも関わらず、まだ新しい動きがあるんだなって、いつも感心して、そしてワクワクする。生きれば生きるほどマンネリばかりになっていく人生に、"こんなの見たことない"って、思わせてくれるものは貴重だ。

ブログ「いらけれ」

起きたら腹が減っている。夜中に映画を見て、帰ってそのまま寝て、昼近いから無理もないか。何も考えないことにして、台所に行くとカップヌードルがあったから、お湯と、冷蔵庫にあったキムチと、コチュジャンと、あとラー油と、コショウを入れる。別に、いつも入れているというわけではない。とにかく食べ物で実験したいと思っている。一度でも食べたものは、少しでも味を変えて楽しみたいと思っている。あと、味が複雑であればあるほど良いと思っている節がある。混じり気のない綺麗な透明なスープこそ至高、みたいな考えとは、まったくもって反対だ。それは人生についてもそうだし、思想についてもそうだ。複雑で、分析しきれな余剰を含むような、数多の引用を含むような、ペダンチックなものが好きだ。こんなことを書いているうちに、3分たったから食べた。


気だるい午後には高校野球の大きな大会の決勝をやっていて、僕は高校野球には、本当に興味がない。プロは好きだし、やるのも好きだし、深夜の馬鹿力リスナーだというのに。これはただ、ただただ気質の問題で、生まれつきそうだったと思うしかない。物心ついてからこっち興味がないのだから。今日返却しなければならない本を読みながら、一応テレビをつけて、戦況を追う。ワンサイドゲームになってしまっていて、そして、世間的に不利だと思われていた方が負けている。こういう時、大勝している方がなんだか悪者というか、ヒールになってしまうのは気の毒だ。気を抜くと逆転されるかもしれないのだから、選手は何点差でも一生懸命やる。何点取っても安心してはいけないし、油断は禁物だということが徹底されているチームだからこそ、決勝のような大きな舞台に立てている。とはいえ、判官びいき的なところは、誰にでもあるものだ。


本を読み終えたから、試合はまだ続いていたけれど家を出る準備をする。僕は図書館へ向かわなければならない。間際に、水分補給をするために台所に行くと、昼にはなかったそうめんが置いてある。僕は、スマホで「東京ポッド許可局」の「そうめんわかった論」を聞いていたところだったから、ビックリして写真を、ニヤニヤしながら撮った。


外は、久しぶりの暑さだったものの、いい風が吹いていて助かった。こんな日は、やっぱり働かないにかぎる。図書館には借りたいと思える本がなかったというか、ピンとこなかったから、その後の予定を変更して、市内の別の図書館へ向かった。本当は、最近気になっているシチュアシオニストのことを調べたかったのだけど、どの本を読んだらいいか分からないまま、美術の棚の前にいたら、『ぐっとくる題名』が、めちゃくちゃそこになさそうなのに並んでいて、気が付いたら借りていた。明日から読もう。


歩きながらも、サイトのアクセス数が気になってしまう。今日は一段と少ない。検索から流入してくる人は、かなり運みたいなところがあって、日によってその数が大きく違うことを、僕はサイトを作ってから知った。明日はたくさんのアクセスが来ますようにと、祈りながら寝るのはどうだろう。祈りは通じないだろうけれど。


家に着くと、そうめんが茹で上がっている。ありがたくないことも一杯あったけど、ともかくこれは、ありがたいことだ。すすりながら、広島-ヤクルト戦を見る。おいしい。ありがたいことだ。今日も最後にキムチを入れてしまったりして、食に対するスケベを丸出しにする。家の食は恥ずかしいものです。


野球は、劇的な展開でヤクルトが逆転勝ちをする。僕はそれまで、その試合の解説の前田が、解説ではなく広島の応援をずっとしていたから、音声を消していたのだけど、逆転したあと、さらなる追加点をバカバカ取っているところは音量を上げて、その反応を聞いていた。自分にはサディスティックなところがあるなあと思った。