ブログ「いらけれ」

台風21号(名前:チェービー、韓国語で燕の意)が上陸した日のことを書こうと思う。

朝から頭がぼんやりと痛い。気圧が関係しているのか、それとも偶然なのか、よく分からないけど頭が痛いのは本当で、何もしたくない。

「荻上チキ・Session-22『遠野物語』から考える〜怪談は現代にどう受け継がれてきたのか?」を聞く。聞きながらいつの間にか眠ってしま
って、覚えているところまで戻って、聞き直すけどまた眠ってしまって……というのを何度も繰り返してしまう。テーマが怪談だったからか、なんだかすごい夢をいくつも見た。

寝たら頭痛もだいぶ良くなったので、昼間から酒を飲む。ブログを書こうと思うけれど、書きたいことが何も思い浮かばない。ここのところ、ずっとスランプみたいな感じだ。

台風の風のなか、病院へ。こんな日は出かけない方がいいのだろうが(病院も休むべきなのだろうが)。行きは雨も降っていなくて、風もそこまでではなかった。西友に寄ってBluetoothイヤホンを見るけど、ネットよりだいぶ高いのでやめる。

クリニックの待合室のテレビのチャンネルは、いつも日本テレビになっている。映っているミヤネ屋で関西方面がどうなっているか、そこで初めて知る。どんどん言葉が失われていくような、そんな光景で、今日のことをブログに書いていいものだろうかと思う。診察はすぐに終わった。

調子に乗って、コジマまでイヤホンを見に行こうとしたのが失敗だった。強烈な風と雨。状況が酷くなるほど、テンションはあがる。テンションが上がっているということは、状況が酷いのだ、ということを教訓として覚えておこう。なんとか生きて帰って来られた。それだけでよかった。

前方からの強風に、大きな道路を挟んだ向こう側の歩道を歩く小学生たちが楽しそうな声を上げる。子供はそれでいいというか、子供にはそれでいて欲しい。雪が降るときも、大人はしかめ面しかしない、それが間違っているのだと思う。でも、大人には責任があるから、小学生たちに付いていた保護者はしかめ面をしていて、それは危険から守る必要があるからだし、それはそれで正しいと思った。

家に帰ったら、少しだけ書けた。

夜は王座戦の第一局(イケメン対決だなあ)をメインに見ていた。ずっと先手が良さそうではあったものの、後手の勝負の仕方が上手くて、終盤は非常に難解になった。ドキドキしながら観戦していたら、付けっ放しにしていたテレビのヤクルト-中日戦の9回裏がすごいことになっていく。6点差を徐々に縮めていく。途中、武内の4年ぶりのホームランなんかもあって、追いつかないだろうと思いながらも、なにかすごいことが起こっていることは分かった。嵐の夜だ。

結果、王座戦は先手の挑戦者が勝って、ヤクルト-中日戦はヤクルトスワローズが延長11回にサヨナラ勝ちした。この劇的なサヨナラ勝ちを、この日に、帰れなくなるかもしれないこの嵐の日に、わざわざ球場に行って、目の前で見た人は一生ものの思い出だろうな。

あと、ブログも書けた。こんな毎日の中で、僕は生きている。

ブログ「いらけれ」

このブログをちゃんと書くことにした5月から、来る日も来る日も書いている。書くこと自体に快楽があって、というか、楽しいと思っていないとやってられない。楽しいということにしている。しかし、昨日のブログのことは、どれだけ分かってもらえているのだろうか。最初に、「知るべきことが知りづらい場所にある」って書いてあって、その通り一番いいことが最後に書いてあるという。こういうことを考えているから、大衆性がないのだろう。どんな企みも、まったく届かないまま、ただただ毎日が過ぎていく。

書けども書けども上手く書けないという日々が続いている。上手く書けないという苦しみがある。才能のあるなしと、やりたいやりたくないの掛け合わせを考えてみる。才能があってやりたい人は幸せだし、才能がなくてやりたくない人も幸せだ。才能があって、やりたくない人も大抵幸せだ。やりたくないのだから、才能自体に気付かないことも多いだろうし、何かのきっかけで才能を知ったとしても、やりたくないならやらなければいいわけだ。中原昌也みたいに、書きたくないのに書かされる、書かねばならないことの方がレアケースだろう。
で、である。やはり一番苦しいのは、才能がなくてやりたい人だろう。なにせ彼はやりたいのである。しかし、やったところで、大したことはできないし、大したものは作れないし、もちろん誰かに評価されるわけでもない。才能がないからね。あなたなら彼に、なんて声をかけるだろう。どうしたらいいと、アドバイスするだろう。なにせ彼はやりたいのである。「やりたいなら、勝手にやってれば?」そのうち彼は死ぬ。

こんなの全部冗談だけど、しっかし、みんなは僕の文章が苦労なく読めてうらやましいなあ。待ってれば更新されるだなんて。僕も……あ、ごめん、この先「僕も僕の文章が読みたいけど、でも、僕が僕の文章を読むためには、僕が頑張って書かなきゃいけないんだ」って書くつもりだったんだけど、うん、そんなに読みたくないかもしれない(笑)。自分で面白く思えないんじゃあ、そりゃあアクセス数も増えませんわ。でもあれよ、「僕が書く文章は世界を良くすることに資するものになっているだろうか」とか、そういうことは考えているのよ。仕事でも考えて書いてる。つまり、頭がおかしい人なんだけど、これがマジなんだな。っふふ。

さて、「つまらない企みをする才能がないのにやりたがる頭のおかしい人」という、アレさが満貫はありそうな僕が、僕のブログがどうなっていくのか。少しは面白くなるという事態が、果たして訪れるのか……刮目せよ!

ブログ「いらけれ」

僕たちには知らなくていいことがある。今の僕たちは、知らなくていいことまで、あまりに知りすぎている。とはいえ、知るべきことだけ知るなんて無理だし、知らなくていいことを知らないふりできるかといったら、そういうわけでもない。知ってしまったら、知ってしまったように生きるしかない。しかし、本当に知るべきことは、本当に知りづらいところにあるものだね。

「倉本聰の偉大さについて——連載:菊地成孔「次の東京オリンピックが来てしまう前に」17」
ライターにとって、怖いコラムだった。確かに、カルチャーを扱うサイト(アレやアレ)のインタビュー記事って、今大体こういう感じだよね。文体は、無意識のレベルで作られているという面があり、それが恐ろしいわけで。
しかし、多くの人がアレを読みやすいと思っているとしたら、PVが伸びるだろうし、むしろああやって書くだろうというのも想像できる。これは難しい問題だなって思ったり。
とにかく、金もらって物を書く人は、内容よりもまず文章に対して特別な気づかいをしなければならない。最低限。その先ってなると、また違うものが問われるってことで。(全部わざとだよ)

『ぐっとくる題名』を読み終えたので、図書館で返却。次はなに借りようかとふらふらしていたら、大澤真幸の『可能なる革命』を手にとってしまう。"しまう"って書いたのは、大澤真幸の本なんて何度も読んでいるわけで、「知っている著者の本を借りない」という自分ルールに反しているからだ。でも、読んでみたかったんだもの。それで、時間的に厳しいし、だいぶ負担になるけれど、二冊借りることにした。社会学の棚で目に留まったのはジュリア・カジェ『なぜネット社会ほど権力の暴走を招くのか』で、それにした。書名が興味の中心に近いというのが大きな理由で、著者プロフィールに「夫は『21世紀の資本』著者トマ・ピケティ氏。」ってあったから借りたわけではない。でも、それはそれで後押しにはなった。読み終えられるかな、まあ無理なら人生で初めて延長すればいいか。


洪申豪 – Morning / 吠吠狼TV

自分のブログを見返すことも、一度聞いた曲をもう一度聞くこともあって、それで、僕にとって大事なものが、他の人にとってはそうではないかもしれないことが、鮮烈に分かった瞬間があったんだ。
僕がこうして"かろうじて"生きていること、この今にいることを可能にした宝物だって、誰かにとっては道端の石と変わらないのかもしれない。でも、それはそれでいい、それはそれでいいだろう。誰かの宝物だって、僕にとっては道端の石だ。
ただ、それが僕の中で、とっても大事であることを尊重してほしい。大事だと思っているものをではない、大事だと思っていることをだ。その思いをだ。それはもちろん、誰かが何かを大事だと思っていることを、僕は尊重しようと思うという、そういうことでもある。
お互い大事なものを抱えて、そして、お互い大事にしているものがあることを尊重しあうなんて、なんと素晴らしいことだろうか。僕たちの間に、それが実現したとしたら、どれだけ素晴らしい世界になるだろうか。これが、僕の理想。

ブログ「いらけれ」

「2018/09/03 今日のボイスメモ」
私のやっているポッドキャストが更新されました。
なんかノイズが入っているのは、マイクをポケットに入れたまま洗濯してしまったため、壊れていたからだと思われます。あと、アドレスに日本語が入るようになってますけど、配信に使っている「Seriously Simple Podcasting」というWordpressのプラグインの仕様変更によるものかと思います。変更できませんでした。
そんで内容ですけど、なかなか難しいですね、話すというのは。どうやったら面白くなるのか、真剣に考えなければ。次回はもうちょっと頑張ります(って毎回言っている気がする)。

西友で2000円という破格の安さに、くだらない靴を買ってしまう。あまりに古い靴を履いていたから、買いたいなとは思っていたんだけど、あれは好きな靴じゃなくて、特別安い靴だ。やっぱさ、好きなもの身につけていたいよな、誰に何言われても。そういうところから、日々のメンタルコントロールって始まると思うの。だからさ、もう少しちゃんと稼いだら、好きな靴買おうと思う。

千葉雅也さんのツイッター面白くて好きなんだけど、見てると、仕事に使っているアプリ?サービス?が勝手に仕様変更して困っているというつぶやきをよくしている。これってインターネット以降の出来事で、それこそツイッターとかもアップデートで勝手に変わって、タイムラインに人のいいね(前はお気に入りって名前だったね)が流れるようになったりするわけだ。手に入れてさえしまえば、自分で好きにいじって、自分の世界を作れていた。例えば、本に赤ペンで書き込んだら、それは独りでに青色に変わったりしないけど、ネットサービスやアプリにはそれがあり得て、なんかすごいなって思う。「自分が完璧に整えた設定が、外側の手によって勝手に変わる」って、とても哲学的な何かなのではないだろうか。

スマホでラジオを聞く、スマホのイヤホンジャックが壊れている人に語りかけたい。僕も、だいぶ前からアレが壊れていて、左耳のイヤホンから音出ないし、ラジオクラウド(ラジオクラウ怒!)っつうのがあるから、普通の音楽プレイヤーを買うわけにはいかない(聞けないからね怒!)。iPodは高い。買い替えても、どうせまた壊れそう。二台持ち?とかも考えたけど……電話もカメラも使わないスマホを買うのも違う気がする。そこで!!Bluetoothのイヤホンが急上昇するわけです、主に僕の中で。Bluetoothのイヤホンなら、イヤホンジャックいらないからね!このその手があったか感。しかーし、Bluetoothイヤホンってどんなもんなんですか?実際使えるもんなんですか?通信が切れたりしない?などなど、そのあたりは……知らない。各々で……調べて。


洪申豪 – Morning / 吠吠狼TV

僕の中で、洪申豪が特別すぎる気もするけど、本当に良い曲だなあ。訳詞もいいんですよね、これがまた。ちなみに、このブログ記事のタイトルと、「憂鬱を追い払う事はできない」は、訳詞からいただいています。拝借してばかりでは申し訳ないし、あと純粋に欲しいから『bored』買おう。