ブログ「いらけれ」

だいたいヤクルトスワローズが勝っていると気分がいいぼくだけど、スワローズの近藤投手が登板している場面と、WWEのジェフ・ハーディ選手の試合と、ぼくの見ているときの気持ちは全く一緒で、「早く休ませてあげて」だ。それしか思えない。

新宿の駅前の雑踏の、そこに行き交う人たちの話し声がすべて耳に入ってくるような、SNSにはそんな感じがしていて、あの人がこう言っているからとか、こういう意見が多数派だからとか、思わないはずがない。自分は自分の手綱を握って、統制下に置いているつもりだけど、自分で考えたことだって、誰かの影響を受けていて、それは、決して悪いことばかりじゃない、もちろん。でも私は、「これが私の考えでござい」って、私を全面的に信じることはできない。
私が、人目につかないところで、公にしていないところで、その過去で、誰かには到底想像もつかないようなリアリティで生きているのと同様に、誰もが、誰にも想像できないリアリティを持って生きているのだとしたら、それは、私たちの、お互いの間に、雪渓のクレバスのように、想像力では補えない深い裂け目が広がっているということで、だから「想像しましょう」では、想像できないのだから駄目だ。共感しえないこと、分かりえないこと、想像の外、思いついたり、考えられることの外があることを、その想像力の中で想像し、いつも心に留めておく必要がある。
こういうのを「抹香臭い」っていうのかな?「抹香臭い」って、いつか実生活で使ってみたい言葉だ。

病院の壁は驚くほど綺麗だった。男が、それまで手にしていた文庫本を放って、茶色い床頭台の観音開きドアを開けて、カードを差し込んだらテレビが映った。彼はそれを眺めていた。ニュースによれば、歌舞伎役者と女優の婚約が解消されたという。なんでも、女が昔ホステスとして働いていたことを、男の親族が問題視したのだそうだ。彼は、二人がすべての面倒を打ち捨てて、駆け落ちするところを想像した。彼らにはそれができないことを承知の上で、とても強く、そうしたらいいのにと思った。


GRAPEVINE – Arma

無限にあるはずの未来が
掴みかけてはまた遠ざかる
手を伸ばせもっと
届かないのもそれがご愛嬌

なぜかこのタイミングで、YouTubeにMVのフルバージョンがアップされていた。これが発売されたころか、少し前だったのか、ラジオの録音(「伊集院光の深夜の馬鹿力」だったか)を聞いていたら、採用面接の前か後かにこれが流れてきて、泣きそうになったんだった。受けたのがどの企業だったかも忘れてしまっているくらいに、全ての記憶は断片的だけど、あの気持ちだけは確かだ。

ブログ「いらけれ」

今日からまた本を読む生活。『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』を借りたので。少しはブログが面白くなると思います、不調を抜けて。面白くなりたい。ウォッカで酔って書いたら面白くなるかと思ったけど、味として飲める濃さだと、そもそも酔わないことが分かった。酔いたい。
そんなことより、図書館で見かけた『小説、世界の奏でる音楽』を手に取ったところ非常に面白そうだったので、とにかく、この本は読まなければならない。自分の人生に、大事な本になりそうだ。小説論三部作は『小説の自由』だけ読んでいて、『小説の誕生』はいつか読もうと置いてあって、そっちを先に読んだほうがいいのかな。

「(注意)映画『カメラを止めるな!』を観た感染者限定。 上田慎一郎監督&市橋浩治プロデューサー 13000文字越え!インタビュー」
インタビュアーの熱がすごい。やっぱりみんな仲間になりたくなるんだなーって思った。それが、あの映画の不思議なところだよなあ。「内輪に入りたくなる」ってのは、これからのエンタメのポイントなんだろうって思う。

まだ夜中の、強烈なこむら返りの痛みが、歩くと少し残っている。私の頭に痛みの記憶は、眠っていたのか、寝ぼけていたのか、その他の情報を失って、ただ痛かった記憶としてだけ残っている。少し休んだほうがいいのだろう。

書くことも大変だし、辛いことではあるけど、そんなことより断然、書かないことの方が辛い。この言葉の裏を読んで、僕が会社で何をやらされているのかを想像しちゃダメだぞ☆
そんなこんなで働いていて、それで思うことは、この世には二つの人間しかいない、「働かないと死ぬ」としたら、働いて働きすぎて死にたいタイプと、働かないで飢えて死にたいタイプだ、と。これは完全に妄言なので、真に受けないでほしいんだけど。もちろん僕は後者で、とにかく働きたくはないんだなと思いながら生きている。
最近考えたことがあって、明日不老不死が実現したら、人間はどうなるかということだった。生きている人は死んでいない以上、もしかしたら不老不死かもしれないわけだけど、人間は誰も、死なないとは言わないまでも、1000年生きると思って生きない。500年でも、200年でもいい。必ずもっと長く生きなければならないとしたら、あなたは今の、そんな暮らしをするだろうか?「死なないのならしないこと」は、きっとするべきではないことなのだと思う。
要するに、どうでもいいことを、どうでもよくないと、思い込まされすぎているのだろう。実際、何があろうと死ぬだけなのだ。飢えても、億万長者になっても死ぬ。人間関係が上手くいっても、原稿が褒められても、貶されても死ぬ。それだけなのだって考えて生きているこれは、心の作った心のフェイルセーフなのだろうか。

ブログ「いらけれ」

「リファラースパムを仕掛けてきている方、許していただけないでしょうか……。」っていう気持ち。最近は毎日のようにやられている。弱小サイトだからこそ、普通のアクセスが少ないので目立つからこそ、狙われているんでしょうか。僕は臆病なので、そのサイトへ行くことはありませんよ~って、別に読んでるわけじゃないだろうからなあ。根本的な解決法もないみたいで困っている。

寝て、起きたときに思ったこと。自分の経済嫌いもすごいところがある、経済嫌いというか、金儲け嫌いというか。
セドラチェクがテレビ番組で価値のおかしさを言っていて、ペンを100円で取引する場面があるとして、そのペンには100円以上の価値があると思うから買い手は買う(そうでなければ買わない)わけだが、売り手は100円以下の価値だと思って売る(そうでないならもっと高く売るか、売らないはずだ)わけだ。つまり、取引の場面において、買い手と売り手はすれ違っている"のに"、しかし、どこかで価格が定められるという、不思議な状況が起こっている。
そもそも、そう考えるのであれば、買い手になることも売り手になることも人を騙すようなところがあるわけで、それは落語の「猫の皿」なんかは、高いお皿を安く買い取ろうとする(そして失敗する)分かりやすいお話しになっているけれども、でも、普段の買い物でも、実は似たようなことをしているんだっていうことで、だから、資本主義が嫌いなのかもしれない。
で、まあそれはいいとして(笑)、儲けてる人、本当に儲けている人っていうのは「上前を撥ねて」いるわけじゃないですか。会社とかだって全部そうだけど。任侠もので、仁義とかいって犠牲になる誰かによって、上の奴が得をするのとか本当にヤダ。でも現実社会は全部そうで、それが本当にヤダ。
自分の労働が搾取されるのとか本当に……って、だから資本主義が嫌いなのね、分かったよ。

台風の図書館前で、なんかびっくりするほど落ち込んだ。
明日から仕事だからだろうか。ヘイト本が並んでいたからだろうか。ちょうどいい思想書がなかったからだろうか。貼っても貼ってもポスターが剥がれるからだろうか?それとも台風で心がざわついているからだろうか。
台風の強い風と、細かい雨を浴びながら、早くお金をもらって文章を書きたい、物書きとして暮らしたいって思っていた。


映画とプロパガンダ【WOWOWぷらすと】

面白く見た。良い回だったと思う。
プロパガンダといわれるようなことは、全て悪なのか。そもそも芸術を作る動機の中に、人に何かを感じさせたいというものがあるとしたら、そしてそれを全ての観客に伝えたいと思っているのなら、それはもうプロパガンダなのではないか。良いことならプロパガンダしてもいいのか。むしろ、良い考えなら積極的にプロパガンダするべきなのか?
「プロパガンダだからダメ」と、「良いことならどんな表現をしてもいい」の、その二極の中に答えはなくて、その間で揺れること。定位しないで悩むことにしか、私たちの正義はないと思っている。

ブログ「いらけれ」

「カメラを止めるな!」を見た約15時間後、まだその余韻の残るなかで、「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」を友人に誘われて見てきた。約2時間半。帰りの電車と飯食いながらのツッコミ大会、1時間半。いや、すごい映画だったですよ。だって二人で思い返しても、敵側が重要なアイテムを手に入れた大事なシークエンスが思い出せないんだから。っていうか多分、大事なシークエンスがないんだから。2時間半あるのに。
終演後のトイレで、若いにーちゃんが「難しくて分かんない」って言ってたけど、敵味方(また、内通者や裏切り者)が入り乱れるその内容は、確かに一回見ただけで理解するのは難しく、しかし、映画の見どころは大きなアクションシーンなわけで、そのミスマッチ感はなんとかしたほうがいいかなと思う、シリーズとして。
見どころであるアクションはすごくて、それは否定しようのない、この映画の美点だ。特にクライマックスでは、4回くらい「死んだだろ」って思った。トム・クルーズは死にたがりなのだろうか。
その他、細かいツッコミどころを上げていったらキリがないくらい(特にウォーカー問題な!)だけど、もしこれから見られる方がいるとしたら、「バカになって楽しむべきだ」とアドバイスしたい。気にしたらいけない。疑問を持ってはいけない。
とにかく、最初の格闘シーンで、相手と組みあい後ろにくるっと回って床にたたきつけるあの技が、「スパニッシュ・フライ」という名前だ、ということだけ覚えて帰ってください。

映画館でさ、クスッと来る笑いどころで、一人声を上げて笑うおじさんがいてさ、友達とその話にもなったな。全員が同じところで、同じレベルで笑うのも全体主義的で怖いんだけど、落語界でもそうだけど、一人の変な笑いで空気が壊れるっていう面もあるから難しいよね。でも、やっぱり唯我独尊はやめて欲しいって思っちゃうな。
最後の感動シーンで、そのおじさんはすすり泣いていた。他には誰も泣いていなかった。その唯我独尊っぷりにギョッとした。

ミッション:インポッシブルにツッコんでいた中華料理屋で、初めてドラゴンハイボールなぞ飲み、美味しい麻婆豆腐を食べ、楽しく解散して帰ってきた部屋が、その中華料理屋と全く同じ匂いでびっくりした。誰かが、僕の知らない内に、この部屋で中華料理屋を開いているのかもしれない。

死ぬまでにもう少しマシな世界を見たい。醜悪な言説を垂れ流す人々に足りないのは、間違いなく他人に対する想像力だ。それは間違いないが、「だから小説(映画、アニメ、ゲーム……)にたくさん触れるべき」っていうのも「おたく」の自己弁護だと、そう感じてしまう。そういったものに触れながら、ヘイトしたり差別したりする人々も、いっぱい見てきたから。
答えなんてないんだけど、戦い方を考えなければならない。