ブログ「いらけれ」

帰り道、目の前で、おじいさんに自転車がぶつかる。その時の僕は、本当に偶然に『文化系トークラジオ Life』の「平成で終わりにしたいマナー」Part6を聞いていた。そのなかで柳瀬さんがしていた「愛もいらないし正義もいらない、目の前に困っている人がいたときに、どれだけ親切にできるかだ」という話を、本当に直前に聞いていたのは、神の差配だったのだろうか?とはいえ僕は、この言葉を直前に聞いていなくても、倒れたおじいさんに駆け寄れたと信じたいが。

プライバシーに配慮して、それがどんな事故だったのか、詳細に書くことは控えようと思う。しかし、明治時代の文豪の随筆だったら、見たままを書いて、それが評価されていたのではないだろうか。まあでも、令和時代の一般人の日記には、書かない方がいいこと、書けないことが多い。それは、しょうがないことだ。僕は、僕が書いていいと思うところまで、書こうと思う。

倒れたおじいさんは、起き上がることができないようだった。なので、救急車を呼んだ。けどその前に、近くの駐車場で警備をしているおじさんに、「救急車呼んだ方がいいですかね」と聞かなければ、電話できなかったことは、恥じた方がいいだろう。自分の責任で救急車を呼ぶことに、正直躊躇した。幸い、おじいさんは大きな怪我を負ってはいなかったようだが、そのことは、その時には分からなかったことだし、打ち所が悪ければ、その遅れが命にかかわっていたかもしれないわけで。

ひとつ、これから救急車を呼ぶかもしれないあなたに向けてアドバイス。めっちゃ焦るぞ。住所の書いてある電柱とか、結構見つからないぞ。落ち着くのは無理なので、とにかく場所を教えることに意識を向けよう。目に映ったものを、考える前に口にしよう。

前方不注意でぶつかってしまったらしい、自転車を運転していた人もそこにいたが、どうみても僕の方が怪しい。黒い帽子に、(髭剃ってなかったので)マスクもしていて、遠目から見れば犯人。僕の方が熱心に、膝を突いておじいさんに声をかけたりしてるし。しばらくしてから、おじいさんの知り合いという人が来て僕の隣に座ってくれ、2対1になったので、これで怪しさも少し薄れただろうと、少し安心する。こんな軽口を叩けるのも、おじいさんが大きな怪我を負っていなかったからだ。本当に良かった。

ゴールデンウィークで道が混んでいたのか、救急車が到着するまで10分以上かかった。正座のような格好で、青い空を見上げたら、この時間が永遠に続くのかなあと思った。

少し前に、僕のスマホに直接電話が来ていて、すでに話はしてあったので、到着するや否や救急隊員は、手際よく処置をしていく。かっこいいなあと思った。すぐに警察官と、鑑識らしき人が到着した。「マルモクに同定を~」と、鑑識らしき人が警察官に話して、警察官が僕のところに来たので、僕はマルモクになったらしいということが分かった。見たことだけではなく、電話番号と住所も聞かれ、もしかしたら連絡するかもと言われた。救急車は、すでに発進していた。このやり取りをしている間、ずっとドラマの中にいるみたいな気分だった。それは、ドラマでしか見たことのない光景が、目の前にあったからだと思う。

僕の役目は終わったようだ。その場を離れようとしたとき、おじいさんの知り合いの方や警察官の方から、感謝や労いの言葉をかけられて、もちろんそれが目的ではなかったとはいえ嬉しい。僕もなぜか、「ありがとうございました」と言って帰った。今振り返ると、それは正しい言葉だったように思う。心配する人がいて、助けようとする人がいて、守ろうとする人がいるから、誰かが生きている。だから、僕に何かが起こったとき、僕も助けられるのだと思う。だから、その思いと仕事に対して僕は、感謝したのだと思う。

「家に、警察官が来るかもしれないよ……」と脅かしてから、事の顛末を家族に話す。少し誇らしい気分。結局、数日経っても連絡はなかったけれど、それは大きな事件にならなかったということで、まあ、それはそれで良かったのだろう。

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その日の僕は、仕事をサボって外に出た。晴れていて暑くて、夏に近づいているのが分かる。小さな虫が、塊のようになって、飛び交っている。靴が重たく感じる。夏用の靴を買わないと。でも、使えるお金は限られている。財布だって、ボロボロのままだから、早く買い替えなければいけないし、服と帽子はダサいし。でも、迫りくる季節を前に、どう生きようか思案する自分は、人生のなかでもマシな方の自分だ。悪くない。

いつものコースを歩きながら僕は、『文化系トークラジオ Life』を聞いていた。「平成で終わりにしたいマナー」かあ。やっぱり僕は、マナーというものに居心地の悪さを感じながら、どうでもいいって思いながら、それを破るわけでも、それに背くわけでもなく、嫌われないためだけに、無思想に守っているところがあるなと、人生を振り返って思った。

マナーには益も害もあって、そこにいるのは(僕も含めて)人なのだから、ただ従うのでも、破った人を白眼視するのでもなく、その場において都度都度声をかけあって、適切なやり方を探るべきだと分かっていても、それはとても難しいことだ(だからこそマナーがあるとも言えるわけだし)。

僕が気になっているマナーは、食べるときに口を開けてくちゃくちゃ音を立ててはいけないというやつで、これも(番組内で話されていた、満員電車におけるリュックサックのように)音を立てないのがマナーだと言われると、途端に音を立てている人が気になるというマナーで、そのことが不思議だなあと思う。食べながら耳をすませば、自分の脳内に、一番くちゃくちゃ音が響いているというのにね。僕はそこまで気にならないけれど、ここ数年、めちゃくちゃキレている人をSNSで見かけることが多くなったと感じていて、自分は音を立てないようにと、かなり気を付けるようになった。

そういえば最近、麺を啜る音がうるさいと、外国の人が思っているという話題を見かけた。この意見に反感を覚える人も、くちゃくちゃ音を立てる人には怒っていたりして、だからマナーって難しいなと思う。何が良くて何が悪いかの基準って、とても恣意的なのに、その基準のなかにどっぷりと浸かっていたら、良いものは良いとしか思えなくなる。理由がないことに、疑問を抱かなくなる。

僕は、いつでも自分を点検していようと思う。僕だけは間違っていないと思うことが、間違いの始まりなのだから。こんなことを考えながら帰り道、目の前で、おじいさんに自転車がぶつかる。

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こんにちは。今日も日記を書くために、ここ数日で起こった色んな出来事や、思ったことを思い返しています。

僕は、時間がないといつも思って、部屋が汚くなる一方なのも、そのせいにしている。でも、僕は色々なことをやってるからしょうがないよね。一番時間を使っているのは、エッチな動画を探すことで、これはやめられないので、二番目に時間を使っている将棋をやめるために、二段になっていた将棋クエストをアンインストールした。将棋ウォーズと同じ段位まで行って、そこから上がり目が感じられなかったので、僕の実力はここが限界なのかなと思う。クエストは対局数が無制限で、つい熱くなって何局も指してしまっていたが、そのことをいつも後悔していた。上達しないし楽しくないという最悪な状態で、息抜きにもなっていなかったから、これからは、ウォーズをたまにプレイする程度の付き合いにしようと思う。自制。

それで僕は、久しぶりに株の勉強を始める。将棋でお金が儲かることはないけど、株なら可能性があるからね。僕は馬鹿だな。初心者向けの動画などを見て勉強して、おそらくすべてのビギナーが思うのは、これなら簡単に儲かるはずだということで、はっきり言って儲からない理由が分からない。しかし、現実には8割から9割の人が損をしているらしい。どういうことか考えてみた。思いついたのは三つだ。

一つ、勉強しないで参加する人がたくさんいて、それで負けている。
二つ、勉強しても、その教えを守れないから負けている。
三つ、そもそも株で勝つこと自体が非常に難しく、1~2割しか勝てないので、その通りに負けている。

その他、何か僕が思いつかない理由によって死屍累々なのかもしれないけど、とにかく「ポケットを叩くとビスケットは二つ」みたいなのって人類共通の夢で、それを目指すがあまり、みんなお金の前でおかしくなる。この日記の読者になるような、まっとうな人は知らないだろうけど、株には、勝ち方を教える塾とか学校みたいなものが、結構な数ある。しかも、授業料うん十万とかで、本当に勝ち方を教えられるのならば、そのやり方で自分で儲ければいいだけなわけで、つまり、高額な授業料を取るということが、勝てないということを証明しているのに、そんな塾や学校がなくならないということは、お金の前で、人間の目はかなり曇ってしまうということだろう。

家のトイレのタオルがもふもふで、もふもふは気持ち良くて、毛布をもふもふにしてから目覚めが悪くなった僕は、そのことがとても恐ろしい。いつか、世界はもふもふに支配されるのではないだろうか。すでに、SNSが猫に支配されかけているように!気持ちの良い物、気持ちの良い映像、気持ちの良い言葉、気持ちの良い政治。僕は、高架下の空き地でもふもふに包まって、若かった頃の夢を見ることしかしない老人になるのではないだろうか。

このように、まったりと生きている僕の前で、あんなことが起きるなんて、この時は、思いもよりませんでした。

ブログ「いらけれ」

私の、ゴールデンウィークのど真ん中に、インターネットでの買い物に使えるポイントを貯めるだけに所沢へ行って、プロペ通りの人の多さが、よくここを通っていた頃のことを思い出させたり、自分はパニック障害ではないかと疑って、家から行ける範囲にある精神科病院を調べていたときに、ネット上の口コミが良かったクリニックの前を通って、結局、もっと家に近い病院を選んで電話をかけたら、予約が一杯だから来月にならないと診察ができないと言われて、俺はパニック障害だからいいけど、鬱の人だったら、下手したら死ぬんじゃねえかなあと思ったことを思い出したり、帰り道にはルートを変更して、坂になっている道の方へ進み、わざわざ遠回りしてまで、線路が下を通っている景色を見たり、この右手にあるマンションは、さぞかし景色がいいだろうと思って、そちらに顔を向けたら、建物の前が広場のようになっていて、鉄棒とジャングルジムと滑り台があって、滑り台の前には砂場があるけれど、鉄棒とジャングルジムの下はアスファルトで、子どもの頃はよく鉄棒やジャングルジムで遊んでいたが、ふざけすぎたり、無茶したりして何度も落ちたのに、今でも生きているのは下が土だったからで、これでは子どもを遊ばせることはできないだろう、などと考える暮らしは、一つのシェルターのようなもので、このように生きて、それをネタにして、このように書いたところで何になるわけでもないのに、しかし、現実から目をそらして、やるべきことに背を向けるのには十分で、英語ぐらいできた方がいいと分かっていて勉強しないのは、怠惰以外の何物でもない

私がそのとき、自動車教習所の前に差し掛かったそのとき、ビルに垂れ幕がかかっていて、免許を取得するために必要な費用、30万円いかないぐらい費用が書かれていて、施設内のコースとバイクを前に、入念なストレッチをしている人々に目をやりながら、「払えるな」と考えて、一瞬だけ教習を受けている自分を想像した理由が、今日分かった。それは、ユーチューブの方で見ていた『本と雑談ラジオ』を、ポッドキャストで聞き返して、それは長嶋有がゲストだったからというのもあるだろう、そのなかで、小説を書き続けて、書くことがなくなったときに、免許を取れば、自分を変えないまま書くことが倍になると思った、と長嶋が話していて、それが意識にあったわけではないが、無意識が覚えていたからだ。"plasticity"は、可塑性という意味の英単語で、人間にもプラスチックのように可塑性があって、それは抽象的なレベルではなくて、脳が、シナプスが物理的に変化するということで、その変化は恐ろしいことでもあるけれど、自分が変わること、変わることを体験することは、大きな希望でもあるのだと思った。

あなたは、私の話を信じないと思うから、グーグルマップのリンクを張っておこう。これが、確かに私の見た光景だ。