ブログ「いらけれ」

後藤さんは後藤さんをしてるので、向き合う誰かの眼差しに晒された瞬間から、その人のなかにある後藤さん像を読み取ろうとし、相手の期待通りに振る舞おうと頑張っているうちに、後藤さんのなかの後藤さん像が歪み、気がついたら前の後藤さんとは違う後藤さんになっており、また、新たな後藤さんの言動に対するリアクションから、向こう側の後藤さん像に加わった変化を察知し、その新たな像に合わせた振る舞いをすることによって、さらに自己像が歪む。
こうした再帰的な回路のなかで、可塑性を持つ私が、その私でいられるのは一瞬のことだ。絶えず輪郭が揺らいでいるにもかかわらず、それでも私は私であるということの不可解さを、いつも私は意識しているというわけではない。そう、私も知らないうちに、私のなかに他人のなかの私が侵入しているのであって、つまり……私は誰だ?

ノートパソコンを有線でつないでいるのは、家に無線環境がないという驚きの事実によるところだが、机の下に伸びた線を足でいじりながら文章を書いていたら、LANケーブルのコネクタが折れ、LANポートから取り出せなくなって、そして僕は途方に暮れた。ペンチで爪のところを挟みながら引っ張ったら出てきたので安心した。すぐに楽天市場で新しいケーブルを注文した。パソコンを持って移動し、PS4にささっていたケーブル(つまり、そもそもこの部屋には2本のケーブルが這っていたということ!)を抜いて、隣には机もなにもないから、転がっていた空きダンボール箱の上に乗せ、線をつないでこれを書いている。ケーブルを移動させれば良いじゃないかって?そういう賢いことを言う人は嫌いだ。それに、このケーブルはいろいろな物の下敷きになっているから、それらを片付けるのが面倒なのだ。へへん、どうだ(と、大いに胸を張る)。

馬鹿の暮らしは、みすぼらしい。

思い出には、どれほどの価値が認められるのか、むしろ、人生はそれでしかないという気もするけれど、でも、容易に失われるものでもあって、喉元を過ぎて熱さを忘れたことにより美化された悲しい別れを、僕は覚えておきたいと思いたいから、歩行者用信号が青に変わるまでの間、無視されても話しかけ続けていた僕に、ときどき戻ってみるのだろう。

ブログ「いらけれ」

一つ目の無意識と二つ目の意識がずれるから、これほどまでに大変なのであれば、物心なんてつかなければよかったのに。反目する直感と論理の狭間で私は、あくまでも一人の私として生きるように求められていて、でも、あの私の口から出たあれは、この私の言葉ではないから、それで"あなた"が傷ついたのだとしたら、その事実に、この私が傷つく。

右足は小指に、左足は薬指にマメができたので、僕はもう歩けません。だって、どちらの足を出しても痛いんだから!あの僕が出し抜けに2万歩も歩くからいけないのであって、この僕は心底うんざりしている。

今日も小雨のなかを散歩したけれど、だから少しショートカットだ。気がつくと、靴と擦れる指のことばかり考えている僕は、"お父さん指"とか"お母さん指"って言い方あったなあと思って、やはり父や母といったものには、あるイメージが固着している、それは現代でも変わらない、だから父のような何々とか、母なる何々と書いた瞬間に、類型的な表現が立ち上がってしまう……だから、目つきの悪い男をわけもなく小説に登場させられない。「目つきが悪い」と書いた瞬間に、小説内の彼は何かを企み始める。しかし現実には、ただ目つきが悪い男なんて無数にいる。現実のように、ただそうであるからそうだ、とはならない小説は、とても不自由だ。

地べたを渉猟する思考。

今は心が無理なので身体も動かないし、働かない頭では文章も書けない。辛すぎていろいろ調べた結果、境界性パーソナリティ障害かもしれないと思った。自己診断は良くないことだけど、自分を知らないのも問題だし。ときどき短い日も作っていかないと、毎日更新なんてできない。そもそも、毎日更新なんてしなければいいのに、なんでまた書き始めたのだろう。その僕については、この僕にはよく分からない。

ブログ「いらけれ」

小説に出てくる「僕」は僕ではないし、「あなた」や「君」も僕ではない。しかし、その「僕」や「あなた」、「君」が僕とすり替わる瞬間(それは大雑把な認識能力しか持たない脳のエラー、愛が生まれるメカニズムと同じ取り違えのようなもの)に、事故のような自己の更新の可能性を見ているから、僕は小説を読んでいる。小説を考えるうちに、小説の側からものを考えるようになっている。

小説を読むと、心の声がその文体になったりしますよね。え、しないって?村上春樹の『1Q84』を読んだ高校生時代の僕は、村上春樹風に描写された所沢駅のホームに立ってましたけどねえ……やっぱり変かな。

僕は真面目だから、「"対話"とか本当にいるんか、それ」と疑いつつ、そして「このままならば、いらないのでは?」と思いつつ、対話の会のスタッフをやっているのだ。こう考えるに至った理由は複雑で、個人的なもので、それに面倒だから書かないけれど(個人的な電話でなら、しぶしぶ話さないこともないけれど)。
うまく対話できない≒そこで話されていること、起きていることがほとんど実社会のそれと変わらない、言ってしまえば現実の縮小再生産でしかないという事態を避けるためには、"一人称単数"的な(?)固有性を持ち寄りながら、他者の固有性に出くわした各々が、無意識的に各々の固有性を交換してしまう(「僕」や「私」と、僕や私がすり替わる!)場を作る必要があるのではないだろうか。それこそが"文学的正しさ"……これを"文学的正しさ"と呼んで良いものなのか、僕には判断がつかないけれど。なんてことを、僕は真面目だから考えていた。

それで昨日、僕が生きていたら、『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』という、大江健三郎の小説につけられた長いタイトルが、不意に頭に浮かんだ。そして、読んでもないのになぜ覚えているのだろう、と思った。"ろうたしあなべるりい そうけだちつみまかりつ"って、たしかに口気持ちいい言葉で、繰り返したくなる語感だし、それでかなあ、なんて考えながら、お茶を一口飲んだときに、『伊集院光 日曜日の秘密基地』に大江がゲストで出たときに、この本が宣伝されていたことを、ビビビっと全部思い出した。僕の過去は、僕のなかのそれはそれは奇妙な場所に置いてあって、それがドロっと出てくるんだな、ときどき。

ブログ「いらけれ」

今日も苦しそうな 君の眼には何が見える?

SPARTA LOCALS「水のようだ」

雨が降っていても歩き出した午後、遠くの空は晴れているにもかかわらず、僕の頭の上には絶えず雲がかかっていたから、2時間以上続けた散歩の間、ずっと傘をささなければならなかった。もしかして、本当に、僕の心が天気に影響を与えているのか?だとしたら、天気さんとの付き合い方を考え直さないといけないな、と思った。

辛い。ツラーだ。ザ・ツラーだ。実は、ツラーはブラーの、ザ・ツラーはザ・キュアーのもじりで、元ネタが違うってところが超面白い。超面白いと言い切ると、本当に面白いことを書いた感じがするけれど、本当はそんなに面白くないって知っている。長い直線道路に僕一人の夏。

車は車で、人は人だった。分からないこと、詳しくないことについては、どうしても認識が雑になってしまうのが人間だから、僕は勉強を続けているし、学んだ先で書こうとしている。考えたつもりになって車輪の再発明をしたり、決着済みの議論を蒸し返したりしたくないから。

政治的正しさではなくて、文学的正しさなのではないか?なのではないか!良い言葉だなあ、文学的正しさ。ああ、文学的正しさなのだ、そうだ(もちろん、この言葉に中身はまだない)。

飛び込んできたすべての情報が、一瞬のうちに記憶へと変わり、残るものが残り、それ以外は忘れてしまう2020年の思い出は、かなり少なくなりそうだ。思い出は匂いであり味であり、サプライズでショックだ。僕たちは、ありふれた日常に内在する個別性を、脳内に留めておくことができない。毎日見ていた「笑っていいとも!」についてさえ、出演者やコーナーといった情報や、特別な場面や出来事しか思い出すことができない。そもそも覚えようとしていないことは忘れる。そして、覚えておこうと思ったことも忘れてしまう。

00年代の終わりには、語られないのではないかと危惧されていた10年代は、発明された"テン年代"という言葉によって、いくらか語られることになったが、おそらくこの20年代は、ディケイドとして語られないディケイドになるだろう。それはもちろん、コロナ以前/以降という切断線が引かれてしまったからだが、10年刻みという、本質的には意味のない区切りから、その時代の精神を見出すという強引な営みにこそ、マジックが宿ると考える僕にとって、それはとても寂しいことである。

もう蝉が仰向けになって転がっていた。だから、なにかを始めたいと思った(なにを?)。