ブログ「いらけれ」

部屋だから、レンジで温めた冷凍のカルボナーラは啜りながら食べている。家だから、温め終わったカルボナーラには、胡椒と一味唐辛子とマヨネーズをかけた。とにかく刺激が欲しい、あと、ソースが少なくて水分が足りない感じがするから、しっとり感を足したい。

テレビには将棋盤が映し出されているが、私はパソコンの前に座ってユーチューブを見ている。京都大学人社未来形発信ユニットのオンライン講義だ。「パンデミックと倫理学」という動画を見ながら、全体の利益のために、ウイルスに感染しているかどうか分からない人を船に閉じ込めたことについて、私は疑問を抱かなったけれど、全体の利益のために、一部の個人にしわ寄せがいってしまうその構造は、経済合理性のために医療を打ち切ろうという考え方と、容易につながってしまうのではないかと思った。

それはそうと、萩山駅の近くを歩いていたときに、「多様性が大切」という言葉が嫌いな理由が分かった。「多様性が大切」をおためごかしだと思ってしまうのは、"多様側"ではなく"普通側"から放たれた言葉だと感じるからだろう。というか、"普通側"だからこそ、「多様性が大切」と言えるのではないか、と。
もちろん"多様側"も多様だから、誇りに思えるような違いもあるだろう。しかし大方の違いには、そして"多様側"に分類されることには、耐えがたい苦しみがあり、「"多様側"ではなく"普通側"が良かった」という、なんとも素朴な気持ちが無視されている気がしてしまう。
言うまでもないことだが、"多様側"/"普通側"という二分法ではなく、それぞれが違うことなんて当然なのだから、もともとの多様さが均されることなく、それぞれがそれぞれに、そのままそこにいるから多様だ、という状態が望ましく、そうした意味での「多様性が大切」なのは理解している。それは分かっているけれど、現実はそうなってないよね、というのが僕の感覚。

気がつくと、これから暗くなるにもかかわらず、また墓地の中を歩いている。自転車に乗った男の子二人組が向こうからやって来た。片方の子が手を伸ばして、並んで走るもう一つの自転車のハンドルを支えている。通りすがりの僕には分からない、彼らの物語がある。イヤホンからは音楽が流れていて、最終的に人間を救えるのは音楽だけなのではないか、と思う。上空には、昨日よりも大きな月が出ている。あの光が、月の発したものではないなんて、とてもじゃないが信じられない。「瑠璃も玻璃も照らせば光る」というから私は、瑠璃でも玻璃でもないということだな。

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今日も人間をやっている、というつもりになっていた。それは、スマートフォンに表示される苦しみに、心にもない優しい言葉を返してしまうような、人間。こうすれば「優しい人」という評価になる。それを分かって、その通りに行動しているだけで、本当に優しい人になれる。優しさのマスクを着ければ、誰もがマスクマンになれる。

いじめたい気持ちと助けたい気持ちが同居しているような、愛と憎しみが共存しているような瞬間はたしかにあって、その形の心を感知したもう一人の私の心が、不思議なほど満たされるのは、『いろんな気持ちが本当の気持ち』(長嶋有の本のタイトル)だからなのだろう。そうそう、今日は『安全な妄想』を読み終えた。多くの人は、その着眼点の鋭さに感嘆するのだろうし、それについては私も同感なのだが、個人的には、文章の湿り気のなさの方が印象に残った。乾いているというのは、けっして冷たいということではなくて、ユーモアに加えてペーソスが感じられるエピソードも含まれているのに、全然ベタッとしていないところがすごいなと思った。

私も、私の文章を乾かしたい。そのためにはまず、私の心を乾かさなければならない。銀行の裏の駐車場の、日の当たらないところに生えた鮮やかな緑の苔と同じぐらい湿っているからな、心。天日干しか?

情に厚いのと湿っぽいのは表裏一体で、長所が短所になり、短所が長所になるというアレだ。一方だけをゲットしようというのは虫がよすぎるのであって、心がさっぱりしている人は素っ気ないからな。やっぱり干すのはやめとこう。

もう蝉が全力です。昼間に野球があって、どうせ負けるなら見なければよかったと思うけれど、それでも見ないと劇的な勝利も見逃すから仕方なくテレビの前にいて、夕飯を腹に入れてから散歩に出かけた。やっぱり涼しくて、とても助かる。蝉の全力具合に、少し励まされるようなところがある。夜に変わる空は美麗で、まるで絵のようだ、という言い回しは面白なと思う。風景画が、ある日の景色を閉じ込めて、遠く離れた部屋に運び込むものだとしたら、景色が先にあって絵があるわけだ。しかし現実の景色は、絵のように常に美しくはないから、曇ったり雨が降ったりする空は、絵のようではない。絵のような空には大きな月が出ていて、「月が綺麗ですね」と思った。

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壁のタイムカードを手に取って、レコーダーの"出勤"と書かれたボタンを押す。ディスプレイには「08:36」と表示されている。私が機械に紙を食わせている間も、このビルの一室の外側に、世界はあった。

月曜日の朝に必ず行われる全体ミーティングでは、最近気になっているトピックやハマっているコンテンツを、すべての社員が紹介することになっていて、そのネタ探しをするために早めに出てきた私は、なにも考えずパソコンを立ち上げて、なにも考えずニュースサイトを開いた。

近頃では、自分より年下の人が死んだニュースを見ても、なにも思わなくなった。それは私が、それなりに長い時間を生きた結果、この残酷な世界ではそういうことも起こるのだと、自分を納得させられるようになったからだろう。不平等が当たり前で、完全な平等なんてありえない。

しかし、そのニュースを目にした私の、マウスを動かしていた手は止まり、思考もフリーズした。事故で亡くなった男性の名前の後ろには、二つの丸括弧が置かれていて、それに挟まれた数字は、私と同じ年齢であることを示していた。

人間の内にあるのは、なにも血液や体液、細胞組織ばかりではない。人間は、時間の詰め物だ。私と同じ年の同じ日、同じ時間に生まれた人たちには、私と同じだけの時間が詰まっている。同じだけの時間が詰まっているはずなのに、一人ひとりが大きく分かれていくのが面白いな、と思う。知識や記憶、経験の差によって、ときには、まったく分かり合えない二人が出来上がる。

絶対に交換できないもの、それだけが、私が私であることを保証している。国籍や性別など、同じものをどれだけ持っていたとしても、私が彼ではないと言えるのは、私にしかないものを私が保有しているからだ。ここまで理解していたとしても、あらゆる固有性が切り捨てられたニュースは、共通性だけを浮き彫りにして、同じ三十年がまるっと入れ替わった。

湧き上がる目眩を抑え込むために、親指と人差し指で目元を押した。偶然にも、私には死んでいない身体があり、私の脳も停止していなかった。そして、9時からのミーティングが待っていた。たまたま許された生を、まっとうしなければならない私は記事のタブを閉じて、他者に向けて開いてしまったトンネルも閉じた。

ブログ「いらけれ」

これといった手応えがないまま7月が終わる。

みんなが記号に反応している。記号記号、みんな記号だけあれば満足なんでしょう?そんなに記号が好きなら、死ぬまで記号をいじればいいんじゃない?

玄関を出たら、部屋よりも涼しかった。心地のよい風が吹いていた。最近は、墓地を抜けるルートを歩かなくなった。心境に変化があったわけではないけれど、少し飽きが来ていたのはたしかだった。水を抜いた足の指のタコが痛い。散歩も人生も、すっかり目的地を見失っている。生まれてしまったことを後悔している。
歩きながら考えていたのは、「今日の夕飯に、なにを食べたいか」だった。カレーがいいね、という話ではないのだが、たとえばカレーを食べたいと思ったとして、そう思えるのはカレーを食べたことがあるからで、カレーを食べたことのない人が言う「カレーが食べたい」は、食べたことのないカレーにチャレンジしてみたいという意味に留まる。ようするに僕は、食べたことのないトムヤムクンを思って涎を出したり、トムヤムクンの口になったりはしないということで、これらはつまり、人間の欲望について考察していたということなのかもしれない。

「世界」や「人間」と同じぐらい、僕の文章に頻出する語に「本当」がある。本当に、それが本当の僕だというのは本当?なんつって。本当ではない偽物の言葉ばかり使っているから、褒めたい称えたいときに「これは本当です」と言ってしまうのは、本当は良くないことで、本当と付けないときは本当ではないとバレてしまっているから、本当に嫌われているのだろうな。

楽天市場から届いていたLAMケーブルは、出かけにポストから取って、鞄に入れて、世界と人間を観察して帰ってきた僕が、いの一番にそれを鞄から取り出して、リビングから部屋に線を引く作業を始めたから、僕は本当に驚いた。変えようとしていないのに変わってしまう、無意識に好転する。僕の人生にとっては、それが一番良いことなのでしょう。両手を合わせて「ありがとうございます」と言った、僕だけがそれを聞いていた。