退屈で遊ぶ
今日も苦しそうな 君の眼には何が見える?
SPARTA LOCALS「水のようだ」
雨が降っていても歩き出した午後、遠くの空は晴れているにもかかわらず、僕の頭の上には絶えず雲がかかっていたから、2時間以上続けた散歩の間、ずっと傘をささなければならなかった。もしかして、本当に、僕の心が天気に影響を与えているのか?だとしたら、天気さんとの付き合い方を考え直さないといけないな、と思った。
辛い。ツラーだ。ザ・ツラーだ。実は、ツラーはブラーの、ザ・ツラーはザ・キュアーのもじりで、元ネタが違うってところが超面白い。超面白いと言い切ると、本当に面白いことを書いた感じがするけれど、本当はそんなに面白くないって知っている。長い直線道路に僕一人の夏。
車は車で、人は人だった。分からないこと、詳しくないことについては、どうしても認識が雑になってしまうのが人間だから、僕は勉強を続けているし、学んだ先で書こうとしている。考えたつもりになって車輪の再発明をしたり、決着済みの議論を蒸し返したりしたくないから。
政治的正しさではなくて、文学的正しさなのではないか?なのではないか!良い言葉だなあ、文学的正しさ。ああ、文学的正しさなのだ、そうだ(もちろん、この言葉に中身はまだない)。
飛び込んできたすべての情報が、一瞬のうちに記憶へと変わり、残るものが残り、それ以外は忘れてしまう2020年の思い出は、かなり少なくなりそうだ。思い出は匂いであり味であり、サプライズでショックだ。僕たちは、ありふれた日常に内在する個別性を、脳内に留めておくことができない。毎日見ていた「笑っていいとも!」についてさえ、出演者やコーナーといった情報や、特別な場面や出来事しか思い出すことができない。そもそも覚えようとしていないことは忘れる。そして、覚えておこうと思ったことも忘れてしまう。
00年代の終わりには、語られないのではないかと危惧されていた10年代は、発明された"テン年代"という言葉によって、いくらか語られることになったが、おそらくこの20年代は、ディケイドとして語られないディケイドになるだろう。それはもちろん、コロナ以前/以降という切断線が引かれてしまったからだが、10年刻みという、本質的には意味のない区切りから、その時代の精神を見出すという強引な営みにこそ、マジックが宿ると考える僕にとって、それはとても寂しいことである。
もう蝉が仰向けになって転がっていた。だから、なにかを始めたいと思った(なにを?)。
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