ブログ「いらけれ」

血塗れのマスク……きゃー、こわいー。あなたの後ろに忍び寄るジェイソン……ひゃー、やめてー。本当にこんなことを考えながら歩いていたなんて、お前は馬鹿じゃないのか、馬鹿に決まっている。

大馬鹿者という誹りに、しかし異論はない。なぜなら、久しぶりに髭を剃って、そして顎を切って、その傷から血が滲んで、口元を覆うマスクの内側に赤い染みを作ったからだ。肌を傷つけてしまったのは、考え事をしていて、髭剃りを横に動かしてしまったことが原因なのだが、私はこの手の失敗を5回に1回はやる。5回に1回は口周りを切って流血沙汰だ。その度に反省し、次、髭を剃るときにはすっかり忘れている。すれ違う人が、私を見ている。

しかし、マスクをつけてないことに意味が出てしまう日が来るなんてなあ。そして世界は、これからもっと難しくなるだろう。服を着ないで外出たら捕まるのと同じで、マスクつけないで歩いてたら逮捕されてしまう日が来ないとは言えないよね。そうやって予防の意識が進んで、全面化した世界を想像してみるけど、きっとどこかで反転するだろうという予感もある。「これについては予防しない」という選択が、ある種の崇高さを帯びる未来。

相変わらず人生が苦しい。そんなこんなで、相変わらずペソアをちょぼちょぼと読んでいるのだが、孤独な男のブログみたい(!!)で、この感じがあと600ページもあるのか、そんなに書いたのかって思う。でも、この日記も本にしたら、同じぐらい厚くなりそうだしな。面白く読んでいるけど、「わたしと農夫の間には質の違いがある。しかるに農夫と猫との間には、精神について程度の差以上のものはない」(『不安の書【増補版】』彩流社,p38)とか書かれると、大丈夫かなって心配になるよ。

うわー神宮行きてー。この目で見たいのは、なんといってもエスキーの守備だ。もう、一生スワローズのショートでいいよって思ってる。今日は青木がヒーローで、そのインタビューで、約一年ぶりに一軍に復帰した原を「個人的にも柱になってほしいピッチャー」って言ってて泣いた。そこにチームがあったから。

涙もろい日々が続いていく。生き方以上に死に方が分からないから生きている。NGシーンしか映っていない走馬灯を見ないために、もう少しだけここにいるつもりだ。

ブログ「いらけれ」

うまくいかないときは、うまくいかない。それが真理だ。この世界について言いたいことはあっても、まだ言葉にできていないから、日記が書き始められない。そうやって日をまたいだパソコンの前で、久々の夜ふかしをしているなあと思う。あの精神的な不調に苛まれていた時期には、24時まで起きていられなかったのだから、この苦しみはマシな方なのだろう。

僕が一般人(パンピー)のフリをしたトカゲ人間だってことに、普通の人々が気づかないのは、僕が普通の人々擬態して、なんとか暮らしているからだが、裏側は異常でいっぱいだから、ときどきそれが漏れ出てしまって、正体を察知した人から順々に去っていく。僕の人生に僕が抱いているこのイメージも隠しているから、誰にも共有されない絶対の孤独は、大きな湖の真ん中に漂う一艘の船の上のように静かで、少しの安らぎさえ覚えているけれど、いつか強い風が吹いて、または底に穴が空いて、あるいは頭山のオチのように……。

結局、有名人のユーチューバー化ついて危惧を抱いていた僕も、「まあそんなもんかな」と納得させられてしまっているわけで、世界はこのまま、まっすぐ進むのだろうな。動画の画質や音声が悪かったり、セットや企画がしょぼかったりしても、そもそも今のテレビ番組がきっちりしすぎなのでは?という疑問が生まれるだけで、むしろ、そのちゃんとしていない感じが、少ししか面白くない感じが適温で、だらだらと見続けながら癒やされてさえいる。

こんなの誰が読んでるんだろ。誰が読んでるか分かんないから、これは自分に宛てた手紙みたいなもんだ。

心は山奥に独りでも、体は東京にあるから、仕事やお金がないことも、友達や彼女がいないことも、そのようにして認められていないことも、そういうものだと受け止められていたとしても、物差しは向こうから当てられるものだから、辛そうな顔をしているうちに本当に辛くなって、やはり痛みや苦しみは誰かから与えられるものとしてあった。僕が「僕はダメ人間だ」と言うときの"ダメ"は、あなた方のなかにある"ダメ"だよ。

ブログ「いらけれ」

十代は屈辱の時代だ、そんな手垢の付いた言い回しでさえ、いや、そんな手垢の付いた言い回しだからこそ、僕たちの頭を意識できないぐらいに、とても巧妙に支配している。だから僕の十代は屈辱にまみれていたような気になって、過去を振り返ると、ずっと先の方まで暗くなっている。

用事がないと、霊園に足が向く身体になっていて、その日はコンビニで宅急便の手続きをしなければならなかったから、久しぶりに違うルートを歩いて、そのままの流れで近所の川まで行って、川沿いの道を散歩したときの話だ。明るい灰色の空が向こう側にあって、遠いビルの奥から雲が立ち上がっている。

「語彙力」という言葉は、つまり、簡単な感想しか出てこないことを自嘲しているわけだから、だったら言わなければいいのに、それでも言わずにはいられないのは、つまり、今のインターネットがそういう構造をしているということで、システムに急き立てられている僕たちは、言わなくてもいいことを言わされているけれど、人々の心は沈黙している。

川が川であるように、川岸は川岸であるのだけれど、それを目にした僕が感動している。雑草が生い茂り、高く伸びるものは高く伸び、あるところでは花が咲いたりしていて、数ヶ月前との大きな違いが、ぐっと迫ってくるような感じがした。冬には枯れるから冬には枯れていたし、この先の冬にはまた枯れる。それなのに生まれたり伸びたりするのが生命で、このことを書きたいと思った。

ずっと歩いていった先で景色が変わり、ごみの焼却施設から白い煙が立ち上り、灰色の空と混ざり、雲を作っているみたいだ。だからか、と思った。そんなことより避雷針だ。避雷針は避雷針と書くにもかかわらず、雷を避けることができないから、とてもかわいそうだ。この発見、すごく面白いと思うんだけど、この面白さを分かってくれる人は、この世界のどこにいるのだろう。そもそも、そんな人はいるのだろうか?

突然雨が降ってきて、人間は平等に負けているのかもしれないと思う帰り道だった。濡れながら、子どもたちのカラフルな傘が集まって、カラフルな紫陽花のように見えた日のことを思い出していた。街にあれだけあった紫陽花も、そのほとんどが枯れてしまった。

ブログ「いらけれ」

放っておくと無限に汚くなり続けるものといえば、そう、部屋。とくに、僕みたいな馬鹿が時間をつぶしている。ブレンの赤がないから、ノートに文字を書けない。部屋のなかで物をなくす人は信頼できないと思う。探すためには、床が見えるようにしなければ。そう思って、散乱しているゴミを片付ける。ゴミとは、僕のことではない。具体的には、楽天ブックスから送られて来る、ビニールのプチプチが内側についたあの袋だ。手に持ったら、線の細い蜘蛛が慌てて逃げ出したから、上に乗っていたことに気がついた。裏返したら、同じ種類の蜘蛛がもう一匹、同じように慌てていた。繁殖しているということは、産卵しているということだろうか。

その人に固有の苦しみを、僕は地獄と呼んでいる。フェルナンド・ペソア『不安の書【増補版】』(彩流社)の22ページには、「われわれに起きたことは、誰にでも起きたことか、われわれにしか起きなかったことだ」とある。これをノートに付けたのが昨日の夜だ。つまり、僕たちの手元にあるのは、ありふれたことか理解されないことだけなのだ。どれだけ恵まれていようとも、あるいは、どれだけ恵まれているように見えようとも、その内側には必ず、認識不可能な痛みがあるのだと思いながら生きていこう。それは、すべての人間に必要な優しさだから。

今月だけでも、高橋ヨシキ『高橋ヨシキのサタニック人生相談』(スモール出版)サンキュータツオ『これやこの サンキュータツオ随筆集』(KADOKAWA)佐々木敦『これは小説ではない』(新潮社)を買ってしまった。『不安の書』は600ページ以上あるというのに、誰が読むのだろうという顔で背表紙が見ている。そんな気がして、どうにも落ち着かない。なのに、デイヴィッド・マークソン『ウィトゲンシュタインの愛人』(国書刊行会)が欲しくてたまらない(分かる人には分かるつながり)。「本を読むのが好きなんじゃなくて、本を買うのが好きなのね」。本当に、僕は僕のことをよく分かっているなあ。本も読まずにぼーっとしながら、そんなことを考えていた。