北東へ向かう
十代は屈辱の時代だ、そんな手垢の付いた言い回しでさえ、いや、そんな手垢の付いた言い回しだからこそ、僕たちの頭を意識できないぐらいに、とても巧妙に支配している。だから僕の十代は屈辱にまみれていたような気になって、過去を振り返ると、ずっと先の方まで暗くなっている。
用事がないと、霊園に足が向く身体になっていて、その日はコンビニで宅急便の手続きをしなければならなかったから、久しぶりに違うルートを歩いて、そのままの流れで近所の川まで行って、川沿いの道を散歩したときの話だ。明るい灰色の空が向こう側にあって、遠いビルの奥から雲が立ち上がっている。
「語彙力」という言葉は、つまり、簡単な感想しか出てこないことを自嘲しているわけだから、だったら言わなければいいのに、それでも言わずにはいられないのは、つまり、今のインターネットがそういう構造をしているということで、システムに急き立てられている僕たちは、言わなくてもいいことを言わされているけれど、人々の心は沈黙している。
川が川であるように、川岸は川岸であるのだけれど、それを目にした僕が感動している。雑草が生い茂り、高く伸びるものは高く伸び、あるところでは花が咲いたりしていて、数ヶ月前との大きな違いが、ぐっと迫ってくるような感じがした。冬には枯れるから冬には枯れていたし、この先の冬にはまた枯れる。それなのに生まれたり伸びたりするのが生命で、このことを書きたいと思った。
ずっと歩いていった先で景色が変わり、ごみの焼却施設から白い煙が立ち上り、灰色の空と混ざり、雲を作っているみたいだ。だからか、と思った。そんなことより避雷針だ。避雷針は避雷針と書くにもかかわらず、雷を避けることができないから、とてもかわいそうだ。この発見、すごく面白いと思うんだけど、この面白さを分かってくれる人は、この世界のどこにいるのだろう。そもそも、そんな人はいるのだろうか?
突然雨が降ってきて、人間は平等に負けているのかもしれないと思う帰り道だった。濡れながら、子どもたちのカラフルな傘が集まって、カラフルな紫陽花のように見えた日のことを思い出していた。街にあれだけあった紫陽花も、そのほとんどが枯れてしまった。
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