ブログ「いらけれ」

はい、みなさんこんにちは。春を告げる桜も、すっかり散ってしまって、過ぎ行く季節を感じる今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。私は、今月も「デモクラシーCafe@東村山」に参加してきましたので、そのご報告を書きますね(会のブログはこちら。内容の詳細は、リンク先をお読みください(ちなみに、会に先駆けて、私が先月考えたことはこちら。「泣いた」という話が書かれています))。

さて、今回のテーマは「友だちってなに?」。友だちという概念はありふれていますが、しかし実は、日常生活のなかであえて考え直したり、捉えなおしたりしていないものですよね。そして、考えてみると意外に難しい。なので、ここで一分、時間を取りますので、友だちとは何か、読者のみなさまにお考えいただきましょう。では、一分スタート。

(一分経過)

どんな答えを出しましたか?あなたにとって友だちとは?あなたが、そこで出した友だちの定義は、もちろん「あなたのだけのもの」です。それは、とても自由なのものであってほしいと思います。誰に何と言われようとも、あなたにとっての友だちとは「それ」であってほしいと思います。もし、何か「言いたいこと」があるようでしたら、コメント欄に書いていただいてもかまいません。とにかく今、この瞬間に、あなたにとっての友だち概念が定義されたと仮定して、この文章は進みます(そして、ここから文体が変化します)。

友だちの辞書的な定義は、インターネットで調べれば出てくるが(「友達(トモダチ)とは – コトバンク」)、『デジタル大辞泉』によれば友だちとは、「互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人。」であるという。あるいは『大辞林 第三版』によれば、「一緒に勉強したり仕事をしたり遊んだりして、親しく交わる人。」と定義されうるそうだ(もちろんこれらも、複数ある定義の一つでしかない)。

そして友だちは、世間的には「素晴らしいもの」だと捉えらえれているといって、過言ではないだろう。さらに友だちは、多ければ多いほど良いものだと、世の中では考えられているようだ(余談だが、人気ライトノベルシリーズである『僕は友達が少ない』というタイトルの、「いない」ではなく「少ない」というところは、友だち過剰な時代を反映していて、とても面白いと思う)。

これは文句ではないと前置きしておくが、辞書が踏み込んで書けないのは、なぜ/どのように友だちになるのか、というところだ。社会に暮らしていれば、すれ違うだけの人ばかりではなく、それなりの時間を共にしなければならない人が生まれるが、同じクラスや会社に所属していても、席を隣にしても、友だちになる人と、友だちにならない人がいるのはなぜなのか。そして、知り合いから友だちへ、どのようにしてジャンプしているのだろうか。

※ここからが面白いのだが、明日に続く。

ブログ「いらけれ」

一日楽しかったなあ。まずは友人と「松濤カフェ」にいって腹ごしらえというか、腹ごしらえというより満腹の先まで行って、それは、サンドイッチを注文するときに、ハーフサイズで頼んでしまったからだ(ここのハーフサイズは、コンビニのサンドイッチより大きいものが、二つ出てくる)。人間は、なぜ同じ過ちを繰り返してしまうのだろうか。

土曜日で混むことを見越して、少し早めに会場に着いていたから、まだマシだったとはいえ、胃からくる苦しさは、公演が始まる直前まで続いていた。始まってしまえば、そんなことは気にならなくなった。胃の苦しさを忘れさせるほど面白かったからこそ、もっと混むべきだと思った。

柳家緑太さんは、トップバッターなのにマクラから大きな笑いを起こしていたし、落語も本当にうまい(と、素人ながら思う)から、それでも真打じゃないんだから、落語の世界の競争は大変そう。
小せん師匠はすごい。「蒟蒻問答」って、微妙に難しい言葉とか、すでに、あまり使われなくなっている親しみのない言葉が、結構出てくるのに、それでも大爆笑だった。
ブラック師匠は、こうして文章にして面白さなんて伝えられないよって思う。例えば、あの噺の途中の大きな"寄り道"について、いくらでも突っ込むことはできると思うんだけど、そういう行為がしょうもなく感じるほど、高座が面白すぎて。明日から「ブラック師匠を生で見たぜ。すごい面白かったぜ」って自慢しよう。
馬石師匠の「花見の仇討」!!!。宣伝されていた通り「大爆笑落語会」として、それまでの高座で成立していて、なんなら笑い疲れていたぐらいだったんだけど、それでも桜のように(馬石師匠が咲くところをモノマネしてたけど笑)抜けていて賑やかな人物たちが、桜のように炸裂していて、ほがらかな笑いで一杯になったぞ。満足感の向こう側だった。

こんな風にして楽しんだ後、地元まで帰ってきて、居酒屋で「楽しかったなあ」と語り合いながらお酒を飲んで、二件目のバーにまで行って、そして午前二時だった。久々の痛飲で、翌日は二日酔いでフラフラ、頭が痛かったわけだが、「デモクラシーカフェ」の日でもあって……ということで、明日に続く。

ブログ「いらけれ」

何も書きたくないときは、手元にあることから始めよう。今日は、昨日の夜から続く咳で、よく眠れないという感じで起きた。喘息なのかもしれないな。それなのに、イレギュラーな仕事によって、方々に出かけていって疲れた。「疲れた」と文字にして、自分が疲れていることを知った今だ。疲れを癒すために、ユーチューブで音楽をかけ始めたら、なぜ人間は、懐かしい音楽を探してしまうのだろう。新しい出会いを探すより、忘れていたような記憶を辿る方が、インスタントに気持ち良くなれる。だから、好きだった曲を探している最中にふと思い出した、お役所を舞台にしたコントみたいなPVの曲を歌っていたバンドって、名前なんだったけなあ、ヒント少ねえなあ、UNDER THE COUNTER……は違うか、サクラメリーメン……って好きな曲あったなあ、チャコールフィルター……は、ぜんぜん違うけどなっつかしいなあとかやりながら、こういう文化的な人間が、当たり前のように見ていた『熱血!スペシャ中学』は、関係ないけれど懐かしいから、番組に出演していたBEAN BAGを聞いたりして、それでWikipediaを読んだら、『ポップジャム』(も懐かしい!土下座させられたと噂の!)の「ブレイクレーダー」という勝ち抜きバトルコーナーでめちゃくちゃ勝ち抜いたという話があって、今度はそちらのリンクに飛んで詳細を読んでいたら、そのコーナーのスペシャル企画があって、その第一回のグランプリがスムルース……スムルースだ!(ちなみに、PVの曲は『LIFE イズ 人生』だ)ってなったこのありふれた奇跡の瞬間に、安いミラクルに、僕はメロメロになって、それで、そのことをこうして書いた。僕が気付いたのは、まず第一に、僕が素晴らしい音楽に囲まれてきたことだとして、次に、そうした素晴らしい音楽を世に生み出してきた音楽家たちが、有名になることも、ビッグマネーを稼ぐこともないままに、廃業していっているという事実だ。僕は今、この文章の上で、さっき気付いたみたいに書いたが、こんなこと、ずっと前から知っていた。みんな辞めてった。そりゃそうだ、供給過多だもの。言葉に出すまでもなく知っていたのに、僕はなぜ、物書きになりたいと思ったのだろう。なれるわけないじゃん。そりゃそうだ。文章なんて、もうどうでもいい。それで、点いていたテレビを見たら、囲碁・将棋チャンネルのCMで、『棋力向上委員会 The PASSION!!』だ……え、麻雀の金子正輝プロ(ネコさん!ティッシュ!)出るんだーってビックリした。あの、明日も明後日も、ずっとこんな感じです。

ブログ「いらけれ」

「新しいメガネにしたんだよ」と言って彼は、耳と鼻で支えられていたそれを、うやうやしく私の前に差し出した。「え」フレームの色が、それまで使っていたものと変わない黒だったので、私は気付かなかったようだ。いわれてみれば、確かに全体的に線が細くなっているし、レンズも小さくなっているような気がする。それと、顔に張り付いているときには分からなかったけれど、耳からレンズまでのフレームの内側が、鮮やかな紫色になっている。先月からライターの仕事を始めた彼は、さっそくメガネを買い変えた。そして、見えないところに派手な色を選んだ。「うん、なかなか、いいんじゃない?」思ってもいない言葉を口にしたことを、私は即座に後悔する。テーブルの上のコーヒーは、コップに大粒の汗をかいていて、氷が溶けて薄くなっていた。なにやってんだよ。

—今では、多くの人がスマートフォンを使うようになって、それまで"携帯電話"と呼ばれていたものは、"ガラケー"と言う名前に変わりつつある。そのガラケーをなつかしく思い出す人も、ガラケー本体の色が「シャインチェリーピンク」(これは僕が、適当に作った名前だが)などといったように、よく分からない名前になっていたことは忘れてしまっているかもしれない。物の色のバリエーションが増え、さまざまに進化していくのは、色が使う人をよく表すからだろう。黒いものが好きで、黒いものばかり身に付けている人はそのような人だ。逆に、白いものを好んで、身の回りの物を白いもので揃えている人は、まったく違った性格をしているに違いない。前段の文章は、『渋滞』のワンシーンだが、小説の主人公である「私」は、「彼」のメガネについて、それが新しくなったということには、教えられるまで気付かなかったようだが、別のものだと知って、以前のメガネとの違いを見分けているあたり、普段から観察をかかさない非常に注意深い人物であるようだし、そこまでメガネをかけた顔に注目していたということは、「彼」に対して、少なからぬ好意を抱いていたということだろう。小さな違いに気づく観察眼のある「私」は、「彼」が就職したという、それだけで浮かれていることを、メガネの色だけで見抜いた。そして、浮かれた気分のままに、それを見せびらかした「彼」に、がっかりしたに違いない。最後に発された『なにやってんだよ』という言葉は、軽佻浮薄な「彼」に向けられた言葉であると同時に、「彼」が馬鹿であることを見抜けなかった「私」にも、同時に向けられているのかもしれない。そしてもちろん、『渋滞』などという小説はない。