ブログ「いらけれ」

今日(と書き付けられているときの「今日」が表しているのは、事実確認的に4月24日なのだと受け取るべきだろうか、それとも、書き手の彼が存在しているタイムライン上にある、どこかの「今日」として受け取るべきなのだろうか。第一、これは4月24日の0時0分に公開されているのだから、特別な但し書きや、日付の指定などがなければ、4月23日に書かれたものとして解釈するのが正しそうだ。しかし、これは0時の時点では0字【0時の時点で0字って面白くね?】だったようだ。そのことは、彼のツイッターにはっきりと書かれているわけだから、この「今日」は4月24日のことを表していそうだが、しかし、彼が過去を思い出しながら書いているのならば、この「今日」は4月23日以前のいつか、ブログの傾向から読み解くのならば、おそらく、ここ数日のことだろうとは予測できるものの、彼が物心ついてから、2019年4月23日までの、いずれかの日ということになるだろう。)の私がこのように、書いている「私」のことを「彼」と書いたり、誰かのつけた長い解釈のように書いたりしてやりたいことは、基本的には100年後に読み返す人を混乱させたいという天邪鬼では、決してない。もちろん、可能性など一メートルもない(こう書くと、結構ありそう)わけだが、もし私が大人物("おとなもの"ではない)になったりして、残したテキストが分析されるような人間になったとして、その分析者を攪乱したいということでは、絶対にない。

つまり、これまでに行われてきたあらゆる解釈について、いやその手前の、歴史的な事実を確定するためにされる調査や検証について、すべてが怪しいということを、こうしてパフォーマンスしているのだ。文章を残すということは、これから懺悔が始まるのだと心して読んでほしいのだが、少なからぬ嘘を生産するということだ。見てきたように、嘘を書いているのだ。それは直接的に、何かを誤魔化すためにそうしたというものだけではなく、かなり無意識的に、自己保身やポジション取りのために行われているのだ(あるいは、非常に無意味に、単なる気分で、昨日起きたことを、「今日」と書いたりしているのだ)。

一番恐ろしいことは、書き手である私ですら、過去のブログを読んで、それを信じるようなところがあるということだ。つまり、書かれている言葉、それが連なった文章が纏う本当らしさに、注意してほしいという警告なのだ、これは。ある種の人間にとっては、ディスクール(あなたに考えてほしいのは、彼がここに至って、こうした現代思想におけるジャーゴンを持ち出した意図だ)の操作など容易であるということだ。「ソフィストに気を付けろ」という言葉の後ろに隠れているのは、「こう警告する私を信じろ」というメッセージなのであり、そうした発言をする者が、本当のソフィストなのだ。

言うまでもないことだが、私も詭弁を駆使しているだけであり、このように書く私を、信じてはいけない。という言葉の真意は、このように自己否定できる誠実な私こそ信じるべきであるというものだ。ここまで読んだあなたは、さて、これから何を信じるようになるのだろうか。それは、私には分からない。