ブログ「いらけれ」

こうして消されていても、いやむしろ消されていればこそ、なぜか読みたくなってしまうのが人間だ。心の底にある、今そこにある卑しさ。

眠りにつくその直前には、頭の中に宇宙が広がって、僕のとりとめのない考えが、勝手に回っていく、勝手に回っていくと無敵だ、僕の才能は無敵だと、その時だけは思い、この思考を、このまま文字にできれば、何を、どのようにでも書けるだろうと、いや明日にはそうしようと考えて、でもいつもやめる。よす。よすのだ。
実際に、僕は何でも書けるという、そういうモードになるときはあって、だからこそ、そういうときは書かないようにしている。結局は、誰かに影響を与えるために書いているわけで、ときおり「誰かに影響を与えたくない」と公言する表現者を見かけるけれど、それは責任を負わなすぎではないだろうかと僕は思うから、誰かに影響を与えるのならば、最低でも心ぐらいは込めなければ、それは最低だ。だから、手先で書かない。テクニックで書かない。書かないということに心を込める。

こう毎日コントを見ていれば、さすがに設定やプロットの一つや二つ、思いつかないわけがない。しかし、私は人前には出られない。なぜなら、小学校のクラスの発表ですら足が震えるような人間だからだ。しかし、私が人前に出られる身体ではないからといって、別にコントを書いてはいけないなんて、そんな法はない。勝手にやるということ。仕事でもないのに、台本を作ってみたりするような勝手が好きだ。そうやって広げた領域が、自分を大きくしてくれている、ような気がする。

あなたが今週すれ違った、妙に印象に残っているあの犬が、実は、日本で一番根暗な犬なことを、あなたは知らない。あなたが今週みかけた、駐車場を横切ったあの猫が、実は、世界で一番プライドの高い猫であることを、あなたは知る由もない。

なんでだろう。数カ月前にはまったく知らなかったような専門的なこと、もっと言えば、今でも何一つ分かっていないような事柄について、なぜか、どちらがいいとか悪いとか、知った風なことを言える、断定できる人が、たくさん出てくることが不思議だ。手に入る情報がすべてではないこと、そして、今手にしている情報を、自分が真に理解できていないことすら忘れてしまい、自分が審判になれると、解説者になれると勘違いするような馬鹿にだけは、僕はならないと誓った。


EELS – Unhinged – from END TIMES – out now!

You need help, baby, you’ve come unhinged

ブログ「いらけれ」

びっくりすることがあるとすれば、たった数日前のことも、この"ここ"から過ぎてしまえば、その手触りがほとんどなくなってしまうということで、だから、あったことをちぼちぼと思い出していこうと思う。

あの日は、その前々日に放送されていた『ラジオ寄席』を聞きながら出発して、でも、途中で変えたんだった。これから落語を聞くというのに、さすがに違うかなと思って。行きの電車で見た空は真っ青で、気を良くしていたのだが、山手線が混んでいてガッカリする。自分もその中の一人なのに、東京一極集中はいけないな、などと考えていた。

そうだ、それで聞いていたのは『文学賞メッタ斬り!』のスペシャル番組で、芥川賞・直木賞候補の解説と、受賞者の予想などを楽しんでいた。これまでの候補作どころか、受賞作だってほとんど読んでいないのに、ずっと『メッタ斬り!』を読んだり、聞いたりしているから、さまざまな作家や、小説の内容を知っている自分。そういう自分が相対化されていく。しかしまあ、手品よりも、手品の種明かしが好きだったり、批評が好きだったりというのは、昔からなのだから、そういう性分なのだろう。

ユーロ近くの家系ラーメン屋に入る。その時点でお客さんが一人で、その人も、僕とすれ違いで出ていってしまった。食べている終盤に、一人は入ってきたけれども、つまり、ほとんどの時間で貸し切り状態だった。以前は、お客さん普通に入っていた気がするけどなあ。なんか変わったんかなあ。無料で付いてくるご飯まで、しっかり食べた。

二階では、会員になる手続きができない。三階に行って、昨年の八月で切れていた会員証を更新する。また通うという、気持ちの表れなのだろうか。本当に通うことができれば、間違いなく得になるけれども、でも、行くことがなくなって損になっても、それがユーロスペースのためになるのならば、それはそれでいいかと、柄にもないことを思った。

おさん師匠は、一人遊びをしている姿がよく似合う。馬石師匠が「ダラダラ」と表現されていた、あの四季についての「こいつぁ極楽だ」みたいな滑り出しから、一人で爆笑した話を経由して、全部一人でやる「二階ぞめき」まで、ずっと幸せだった。

馬石師匠はさすが。(客が使う言葉じゃないことは承知の上で)渋谷らくごにしては、客が非常に「重かった」、それは何十回とこの会場で見ている僕が、これまでに経験したことがないくらいだった(前説にタツオ氏が登場しても、拍手がなかったし)が、しっかりと大きな反応を引き出していたから。落語を知らない友達にすすめるならば、この人だろうというぐらい、間違いのない人だ。

興味深かったのは「妾馬」(最後、馬石師匠は「八五郎出世の一席」って言ってたと思うけど)の、あの殿様に語りかける印象的な場面が、かなりアッサリ演じられていたと、そのように感じたこと。俗っぽくしない、くどくしないという美学なのかなあ、というようなことを考えながら、帰りの電車はもっと混んでいた。

一駅前で降りて、歩く。普段降りない駅の周りは、車窓からでは見えていない部分がいっぱいあって、ああ、石材店が駐輪場になっているんだな、とか、いろんなことに気づく。結局、『ラジオ寄席』を聞いている。通り道である墓場は真っ暗。目が利かない。向こうから人らしき影がやってきて、僕が左に避けたら左に、右に避けたら右に来たから、舗装されているところを出て、木の近くまでこちらが避けたら、すれ違えたけど、あれ、人だったんだろか。今になって、すごく怖くなっている。

このような終わり方をしたら、あなたも眠れなくなったり、夜中にトイレに行けなくなったり、しないだろうか。しないだろうな。

ブログ「いらけれ」

「たいこ腹」が苦手。「たいこ腹って何?」という人は、検索して、これから知ればいいから大丈夫だよ。そんなことより、痛い描写が苦手。それも大きく痛そうな、ざっくりと切られるというような描写より、針が刺さるというようなシーンの方が、リアリティがあって苦手。顔をしかめてしまう。
昔、向田邦子の小説『思い出トランプ』を読んだら、そこにも腹に針が刺さる描写が出てきて、その内容はほとんど忘れてしまったけれど、感想として「痛い描写が苦手」というツイートをしたことだけは覚えている。虫も大概が苦手だけど、今日はあの、皆に嫌われる代表格の虫が、大量に出現するという内容の映画を見る、という内容の夢を見て、目覚めの悪い僕が、気持ちが悪くてバッチリと起きた。毒があるわけでもないに、なぜ、これほど苦手なのだろうか。
「共感性羞恥」という言葉が話題になったこともあったけど、僕にもそういうところはあって、バラエティ番組とかで、誰かが変なこと言ったり、やったりして、変な空気になると番組を変えてしまう。でも、痛みも虫も、誰かが恥をかくところだって、全然大丈夫って人はいるはずで、だからエンターテイメントのなかに残っているのだろうし、人の感じ方ってそれぞれなんだなって思う。
僕が、例えば小説を書くとしたら、そういうシーンは描けないと思う。だって、頭の中で情景を思い浮かべながら書くから、それを想像するのが苦痛だし、不快だもん。でも、そういう自分の感情を越えて、その小説のためには、書かなければならないこともあるのかもしれないなんて、そんなことを思った。

多くの人が分からないだろうという実感がある。僕がなぜ、日記を書くことに、これほど執着しているか、見当がつかないだろう。伝記というやり方があって、誰かが誰かの事を書く。書かれた対象が生きていると、それを読んで怒ったりする。
記憶というのは恐ろしい。僕は白米が食べられなかった。小さなころは、チャーハンとかカレーは食べられても、真っ白なお米におかずという取り合わせは、受け付けない子供だった。あるとき、米どころに旅行に行った。泊まった旅館の仲居さんが、ここは米がおいしいからと言いながら、僕の前に一膳のご飯をよそって置いた。僕が白米を食べないことを知る家族は苦笑いをしていたが、よそわれてしまった手前、「据え膳食わぬは……」という言葉を知る前だったが、しょうがなく手を付けたら、何の問題もなく食べられることに自分で気付いて、以来、おかわりを繰り返して太るほどの白米少年になったという記憶。数年前にこれを、「そういえば昔は……」という、あったあった、そんなこともって盛り上げるつもりで、懐かし昔話モードで話したら、父と母は覚えていないといった。
だからこのことは、僕が書いておかなければ、誰も書かないし、書くことができない。僕が書かない僕の伝記には、出てこないエピソードだ。そして、記憶の本当の恐ろしさは、この思い出が事実かどうか確かめようもないという、極端な不確かさだけではなく、そればかりか、自分でも疑わしいと思っていることで、ただし、いくら疑わしかろうとも、記憶は記憶としてここにあり、それがいつか、僕が忘れたり、死んだりすることによって、失われてしまうことが、とにかく恐ろしい。だから、この日記を書いている。


スネオヘアー編集部ライブ@月刊にいがた編集部 -vol.4-「トークバック」

こんなにも静かな
朝がいつか消えてなくなるなんてね
まだ何ひとつ始まってやしないのに

ブログ「いらけれ」

俺の話を聞け。話半分でもいいから聞け。三分の一しか入ってないけどな。

好きすぎる手口だ。一旦、「昔、何かの記事で読んだんですが、アメリカのスーパーマーケットで……」などと、うん?この場のテーマに合ってない?という話から、もったいぶった口ぶりで始めて、「つまり、ビッグデータを解析することにより、人の意識を変える方法が分かるのならば、わざわざ話し合う必要はないと考える人がいてもおかしくはないわけで……」みたいに、バッチリテーマに戻ってくる手口が。これ使うと、驚きと信憑性が出るんだよな~。はい、詐欺師です。

たっちレディオ第405回で明かされていた渋谷らくごの狙いが、始まった当時の自分にピッタリで、まんまとだなと笑った。落語初心者の学生で、お笑い見るのは好きで、興味はあるけど迷っていて、講義終わりに行けるというあたり。でもこれ、多分順序が逆で、会が始まる前に「ぷらすと」で特集していたときから、そういう人に来てほしいって発信されていたから、一歩を踏み出すことができたのだろう。覚えてないけど。そうそう、昨年末の大掃除の時に出てきた、第一回公演の会の、半券の画像をお見せしよう。ここから4年、かあ。

一緒に『やさしい人』という映画の半券も出てきたが、見たことすら忘れていた。思い出してみる。なんかフランス映画だったよな。あと、いくつかの断片的なシーンや風景が、脳の中に浮かんだ。

振袖の新成人たちのなかには、アイドルみたいにかわいい女の子が一人いた。その子とすれ違うとき、まじまじと顔を見た僕が、本当に覚えておくべきなのは、頭にユニオンジャックのバンダナを巻きサングラス、ハンドルのところからバックミラーがピョーンと伸びている自転車に乗ったおじいさんのこと、快晴の空をバックに、颯爽と駆け抜けていったあの人のことだ。

「そこに流れる言葉は独立した〈詩〉ではなく、あくまでもその情景を補足するような〈歌詞〉であってほしい。 | Rhythm & Rhymes」
GRAPEVINEの田中さんのコラム。とてもいいなって思う。こういう文章が好き。きっと、こういう文章を書ける人のやる音楽だから、好きなのだろうと思う。文章は、その人を残酷なほどに映してしまう。そのことが少し、怖くなった。


tofubeats – 水星 feat,オノマトペ大臣(PV)

めっちゃ久しぶりに聞いたら、あのころのように、やっぱり良い曲だなと思った。あのころのことは、まったく覚えていないし、思い出すこともなかった。

止まってないで転がって踊れ
喋ってない絵の中 動くまで