ブログ「いらけれ」


今年の一月を見せたかったわけじゃなくて、100円ショップで買ったカレンダーかっこよくない?かっこよくない?という話をしたかったのだ。いつも、付き合いで取っている、まったく信仰していない宗教団体が発行している新聞の、カレンダーが回ってくるんだけど、今年はそれがなかった(台所事情が厳しいのかな?)ので、自分で買いにいったら、100均にいいのがあったのでそれにした。書き込みできないけどね。まあ、でも予定はグーグルカレンダーに入れちゃうので、電話しているときとか、部屋でぼーっと先のことを考えるときに必要なだけだし。
カレンダーは好き。親が旅行関係の会社に勤めていることもあって、いろいろな名所の大きな写真が入ったカレンダーをもらう。それがトイレに掛かっている。その美しい景色を、海の上を跳ねるクジラや、噴火した火山を見る。月が変わると、また新しい写真。新しい景色。新しい名所。行ったこともない場所。でも、誰かが見た景色。

彼女の様子がおかしくなったのは、夏頃のことだった。その原因は彼女も分かっていなくて、実は大学受験のプレッシャーだったのだけど、行為は、僕への好意として表れた。受験に向けての夏期講習が始まる前や、終わってすぐの会話、2年間ほとんどしゃべったことがなかったというのに、雑談のなかに、「アタシゴトウクンガスキダカラサー」という謎のフレーズが、ちょくちょく差し挟まれるようになった。クーラーで涼しい教室に、話の流れと関係なしに放たれた言葉は、ワギャンランドのように固まって飛んでった。ハーレムアニメの鈍感主人公よろしく、気づかない(ふりをしていた)僕も、受験生なのだから勉強すべきだった。しかし、ご想像の通り、ここから、あの思い出は始まった。

クリスマスに大晦日、メイウェザーや紅白、あけましておめでとう、初詣、などといったことによって、バタバタして、せかせかした気持ちになっていたことで、そのことばかりで、(より狭い意味での)政治についての多くのことを忘れていた皆さん、こんにちは。それはもちろん僕もそうで、だから継続的な運動や、その後の革命というのはありえない時代だ。みんな毎日が大事で、良識ある人が日々の暮らしを生きるとき、狂信者たちが生活を壊す。ただ懸命に生きるだけで、それがそのまま政治の場に反映されるような、新しいテクノロジーの登場が待たれるところだ。そして、その新しいテクノロジーを過信した人々は、知らぬ間に決定された政治によって、徐々に首を絞められ、ついには絶滅してしまったとさ。(おわり)

ブログ「いらけれ」

姉貴の家族、旦那さんと子どもたちが帰ったから、年末に買った"あまりにも暖かい"布団と、部屋から出た。まず風呂に入って、人が死ぬということは、この世からアカウントが消えることなのではないか、などと、湯船に浸かりながら考えていた。ツイッターの、インスタの、ラインのアカウントが消えたら、一切の連絡が取れなくなって、つまり僕の世界からその存在が消えてしまう人はたくさんいて、それは悲しいことだし困ると思って、なんだか焦るような気持ちになる。ただ、霊魂のようなものがあって、この世の肉体はアカウントのようなもので、肉体がなくなっても、また別の形で大事な人と会えるのなら、そんなに気にならないかもしれない。でも、死んだらどうなるかなんて、その一切は分からないのだった。


まだ騒がしさの残響が残る(気のする)リビングで、僕は昼食としてカップラーメンを食べるためにお湯を沸かし、そして食べて、その間は『戦うお正月』という、お正月恒例の番組を見ていたんだけど、というか、親が見ていたのを見ていたんだけど、なんか今年の番組は全然戦う気配がない。平成の振り返りばかりしていて、「全然戦うお正月じゃないじゃん」とつぶやいたら、父は「そうなんだよ、ずっと見てるけどほとんど戦わないんだよ」と言った。最後まで見ることもなく、早々に家を出た。


お正月の街に、特別な感慨もなく。ただ、聞いていた『東京ポッド許可局』の年越し特番は楽しかった。マキタ&鹿島コンビによるイゾラド芸。何を買う訳でもなくぶらぶらして、商店街に並んではためいている、小学生たちの書を眺めた。字の上手い下手も、僕の目を引くんだけど、書かれている四字熟語が、「一意専心」とかだと、まあそうだろうなという感じだが、「日進月歩」とかだと、それは意気込みとか抱負とは、ちょっとずれてるんじゃないだろうかと思う。なかには「天馬空行」なんてものもあって、尖った子もいるんだなあ。僕が小学生だったら、なんて書いただろう。ウケを狙って「他力本願」とか書く嫌な奴だっただろうな。あのころの僕は、鼻持ちならない生き物だ。


夕食には雑煮と、おせちをいただく。毎年、こんなときじゃないと食べない、食べられないものがあって、楽しい。干し柿のなかにバター餡が入っているやつとか。貝を雲丹で和えたやつとか。テレビは『芸能人格付けチェック』をやっていて、資本主義のことを考える。100万円のワインと5000円のワインのどちらが高いか、黙って出されると分からない、そして、間違えると格が落ちるというシステムは、とても示唆的で、現代では、ゲームみたいな資本主義で上手くやった金持ちが貴族なのであって、だからそれは、高い方を当てるというゲームによって階級を決められるということになって、そして実は、高価なものと安価なものは大差なくて……と考えているうちに食べ終わったので、自分の部屋に戻った。

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どうして、こうも上手く書けないのだろうと、そう思えているから、まだ書いていられる。理想がはるか遠くに見えて、それに漸近したい私がいる。

紅白を見てたんです。僕も、人並みに。それで、ツイッターを開いて、すごい速さで流れていくタイムラインを見ながら、すごく大事なことに気付いたんです。あの、問題は速度なのであって、つまり、こういうときこそ、目を見て話すような態度で、言葉は使うべきなのだって。だから、大切な人には直接に、感謝や思いを伝えました。混迷の現代では、天邪鬼に生きるぐらいが、ちょうどいいのかもしれませんね。あらやだ、いい人みたいで、なんか嫌だ。

今年こそはやるぞって毎年思っている。思っているだけで、毎年のようにダラダラと、寝正月で終わってしまうのがオチで、だから何もせずに眠っていたら、姉貴の子どもたちの笑い声で起こされた。ぼんやりとした意識の中で、漏れてくる幸せそうな声を聴くのは悪くなかった。僕は、今年もお年玉をあげることすらできないおじさんで、でも、元気そうで良かった。
家族というものに対して、それは、僕の家族ということではなくて、「家族」という概念、抽象的なイメージとしての「家族」について、僕は、どういう態度を取るか決めかねている。良い面も悪い面もあるし、しかし、それで人類が続いてきたところもあって、でも、僕には人類がこれからも続いていくかどうかとか関係ないし、だから、自分がこれから新しい家族を作るのか、作れるのかどうかも、作ることを目指すのかどうかも分からないし、そもそも、「家族」という概念のなかにある大きな秘密について、あるいは謎について、考えたこともないわけだから。僕も、子を持ったりするのだろうか?そんなSFみたいなことってありえるのか?

『佐藤大のプラマイゼロ』の「#114 ツヅキのタヨリ」を聞いた。現実には存在しない、バーチャルなファッションブランドの話が面白い。確かに、SNSの価値が上がりすぎている今は、本当に服を着る、それがオシャレで機能的だ、物を食べる、それが美味しいといったことより、それを写真に撮ってアップして、「いいね」されることの方を大事に思う人が増えているわけで、自分の欲望が、他人から「いいね」されるものになっていくという事態は起きているだろう。
ただ、この話が本当に面白いのはこの先で、少し前の流行った「動物化」の議論では、人間は、動物の欠乏ー満足の回路(欲求)だけではなく、他者を必要とする欲望を持っているはずなのに、現代ではそういった構造が消え、他者を介在することなく欲求が満たされるような環境が整備されることによって、「動物化」しているという話だったはずだ。
しかし、ポストモダンの「動物化」の先には、人々がより欲望的なもの、つまり、他者を求めるようになる現実があったということで、これはどういうことなのかについては、誰か批評家か思想家が、頑張って考えてほしいと思います。以上。

ブログ「いらけれ」

まだ紅白を見ていない。なぜなら、まだ放送されていないからね!放送されても、ほとんど見ないんだけどね。

昨日は流れで書けなかったんだけど、渋谷らくごのポッドキャストで、創作大賞を獲得した笑福亭羽光さんの「ペラペラ王国」が配信されているので、ぜひ聞いてほしい。
改めて冷静に(なったつもりで)聞き直すと、構成とか言葉選びがこんなに素晴らしかったのかと、ビックリした。あの(暖房的な意味でも)"アツい"現場にいると、見えなくなってしまうところは、どうしてもあって。あそこにいたものとしては、終演後のホカホカの状態での裏話が聞けたのも、嬉しかった。
そうそう、少し前に、僕が書いた感想を読むと、ああこの人、一応ネタバレしないようにしてるんだなって思いませんか?いろいろ考えて書いてるのよ、一応。一応ね。

ありがたいことに(このブログは別にして)、書いたものを褒められることが増えてきて、でもその度に、なんだか狐につままれたような顔?だって分からなくて。僕を褒めるなんて。
自分にできることは、誰にでもできると思ってしまうし、これぐらいの文章なら、力を入れずに、いつでも、すぐ書けるよって感じだから、褒められていいのだろうかというか、真正面から受け取れないというか。自分に厳しいということだろうか?自信がないだけなのかもしれない。それか、自分自身に対して、料理は作れないけど舌は確かな美食家的な?そんなイメージがあるからなのかもしれない。
一方で、僕は僕の書いたものを読むと、「作者の気持ち」(実は、そんな問題は入試に出ないって、矢野利裕さんがここで書いていた)が分かりすぎるくらい分かって、主張にうんうんと同意しながら、「こいついいな」っていつでも思うんだ。おめでたいでしょ?
ともかく、もっとちゃんと好きなことを書いていこうと思う。それぐらいしか、できることもないし。楽器弾きたい人は楽器を弾けばいい、踊りたい人はどうぞ。僕は書きたい人として書く。それだけで暮らしていけたら、本当に最高なんだけどな。

好きだった女の子から、「女子高生は時間を移動できるって『時をかける少女』でも言ってたし」と言われたことを思い出したが、この発言に至った会話の流れを思い出せない。彼女がキラキラしていたことは覚えている。


毛玉 – 雨降りの午後に珈琲を

分岐点はいくつもある
SF小説のように

忘れていたCDの予約をした。これからの人生を好きなものとあるために、好きなものは応援しなければならない。そうでなければ、なくなってしまうからとか、そういうことでは全然なくて、ただ、このCDがあれば生きて行ける気がするからでもあって、できることならば、あなたにも一度、聞いてほしいなって思う。