ブログ「いらけれ」

肩が凝るということを越えて、首を動かすと筋に痛みが走るようになっていて、もう、生きていけないって思う。スポーツ選手ってさあ、試合前に限らず練習前にも、ストレッチするじゃん?オフィスワーカーも、ホントは仕事前にストレッチとかするべきなんだろうなあ。この痛みに対して、「磁気ネックレスでも買うてやろうか」と思うものの、その科学的根拠の怪しさからやめる。姿勢を直すことと、運動だなあ。あと、目の疲れに目薬は、明日買おう。

なんかこのブログ、このところ特殊回が続いてたから、普通に、なにも考えず書きたいと思っている。

麻雀の「Mリーグ」という、麻雀をスポーツのようにやってるプロリーグがありまして。また、その試合を、スポーツ番組のように振り返る番組がありまして。その中のコーナーで、インスタントジョンソンのじゃいが、名場面を解説する「じゃいの目」というのがありまして。それが記事になったものをヤフーで見まして。それから久しぶりに、麻雀の動画を見まくる暮らしを取り戻した。
麻雀、自分では点計算できないぐらいだが、昔からトッププレイヤーの解説が好きだ。天鳳名人戦(とは何かは、もう説明しません)の、牌譜検討をこばごーがやってる動画とか見てたなあ。それで、今だと日向プロがユーチューブでやってる「麻雀の匠」が面白くて、全部見た。
ただ対局の動画を見ているだけでは分からない、相手がどの牌を、どこから捨てたか、鳴いたかという情報を、まずは覚え、そして推理し、自分の得になるように選択していく、一打一打の裏側にある、理論と思考の鮮やかさたるや。プロの中のプロはすごいなあ、と思う。それで、なおさら自分でやる気はなくなる。
という頭でっかちな方面とは別に、プロたちの人間的な側面も好きで、それは将棋とかも同じこと。前述の番組内には「21人の軌跡」というコーナーもあって、ASAPINの親からの手紙で泣いたり、近藤プロに親近感を抱いたりしていた。なかでも一番驚いたのは、こばごーの回で(「熱闘!Mリーグ#14」、39分ごろから)……歌、上手すぎじゃね!

株でもうかった人の話を読む。それも何百億と。羨ましいという気持ちもあって、自分も株をやろうかという気分になる。働かないで、お金が欲しい。
でも、やっかみ半分、いや9割なのは分かって、憧れないなと思う。人生の匂いがしないと思う。死ぬほど生きている、とは言えないと思う。僕は、死ぬほど生きてやると思う。だから、違うことに人生の時間を使おうと思う。

死ぬまで、あと何分あるのだろう。まったくもう時間を無駄にして、本当に日記らしく書いてしまった。そうそう、実は、麻雀の話と株の話はつながっているのだが、人間の星座が描かれているのだが、そのルートを仔細に追っていくのも面白いのだが、ここではよそう。僕はもう、疲れてしまったから。

ブログ「いらけれ」

1月20日に、2019年一回目の「デモクラシーCafe@東村山」に参加してきました。(会のブログはこちら。掲載されている写真の自分が、思っているより太っていてビックリした。)一回目ということで、新年明けましておめでとうございます、という挨拶をしたり。しかし、今回も人数の関係で断った方もいたということで、ずっと参加し続けていいのか、まだ参加したことがないという人に、自分の席を譲りたいという思いもあるので……悩んでしまいますね。

やっぱり、新しい会を自分で立ち上げるべきなのでしょうか。僕としては、月にもう一回ぐらい、このような機会があると嬉しいなという思いもありますし。姉妹会として、例えば土曜日に開催すれば、日曜日は仕事っていう人でも参加できますし。真剣に考えてみようかなと思います。

今回のテーマは「なにが対話をはばんでいるの?」ということでスタート。前提となる「対話」という言葉一つとっても、会話を重ねるうちに様々な意見が出てきて、やはり、人それぞれに捉え方が違うんだなあと、その考え方の差異について、興味深いなあと思っていました。もちろん僕は、LIBROの「対話」をイメージしながら、その場に座っていました。「心で見て聞いて そして対話」。

これは、私の考えですが、自分にとって"どうでもいいこと"を話題としている間は、その言葉のやり取りは、対話とは呼ばれないのではないでしょうか。そして例えば、自分にとって重要な、政治的な話題について、ある一つの立場を表明しながら会話するということは、実はかなりセンシティブな行為であるはずです。つまり、自分にとって重要な事柄について、おざなりではない考えを、心の内から話し合うことが対話であり、それは、ある面では心のやり取りとも言える。

私たちの対話が、「時間がない」といった環境的な要因以外で阻まれているとすれば、そのほとんどは、おそらく人間関係によるものでしょう。日常生活の中で付き合う相手、知人と表面上うまくやるだけなら、対話は必要ないはずです。なぜなら、意見や思想の違いで言い争いになったり、不快な思いをしたりする可能性があるのだから。だから私たちは、基本的に対話をしません。むしろ、積極的に避けている人もいるでしょう。

対話という行為は、誰かとより深く関係することを望むという愛の行為でありながら、対話相手の思考と思想を理解し、自分との違いを理解し、自分を客観視して内省するための理知的な行為でもあるはずで、愛だけでは暮らしていけないけれど、理性だけでは物足りない私たちという存在を満たす、とても人間らしい行為だと思います。だから、誰もが対話をしたいと思うことと、そして、対話を成立させることは、人間という生き物にとって、非常に大切なことであるはずです。では、そのためにどうするか、というのが、これからの課題ですね。

会の後には、私が誘って(!)、ちょっとだけ延長戦へ。そういうのが一番できない、引っ込み思案な人間だったので、少しは成長したのかなと思いました。はい。会の中で言えなかったことや、関係ない話もして楽しかったです。

来月も予約していますので、また延長戦まで行けたらなーと思いながら、すっかり暗くなった街を帰りました。

ブログ「いらけれ」

昼間には、アンケートを答えに、銀座まで行った。会場のビルの入り口が分からなくて、周りをグルグル回ったりして、時間に間に合わないかと焦った。聞いていた金曜シバハマラジオが、全然耳に入ってこないぐらい焦った。

書くなと言われている以上、詳しくは書けないが、夜の「東村山土曜寄席」の足しにはなるぐらいの、少額の謝礼をもらった。帰り、おばさんが「非常に気分を害しました」と、何についてかは分からなかったが、主催者側にクレームをつけていた。スタッフの人が、エレベーター前までお見送りをして、頭を下げていたから、僕は脇の階段で降りた。

気分を害されることは少なくない。リアルライフには、いろんなことがある。でも僕は、そういう時は黙って、自分が我慢してしまう。文句を言ったことって、ほとんどないんじゃないだろうか。怒れないということは、良いことだけじゃない。怒るべきときに、怒れる人になりたいと、改めて思った。

一旦家に帰るその前に、西友で特盛と書かれたお弁当を買う。申し訳程度のコールスローサラダ。ラジオの、中学校に行けていないという悩み相談に、僕が何も思わないわけはなかった。人生の残酷さ、苦しさに比べて、良いことはあまりに少ないから、自分で楽しむ方法を見つけていくしかないんだろうな、と思う。

CSのチャンネルでは、人力舎の芸人たちが「バカ爆走」というライブの思い出話をする番組が流れている。長細い揚げ物と、丸っこい揚げ物は、どちらも豚肉だった。パーケンが出てきて、驚く。別に、出てはいけないなんて決まりはないのだが、テレビ業界の自主規制を、一視聴者の僕が、先回りして内面化している。

2-300は入っているようだった。だが、ホールは大きく、後ろの席は空いていた。なんで指定席だったんだろう。やはり、年齢的にはかなりのアウェイだった。「観賞マナー」はサイアクだった。メチャクチャしゃべるし。オチ、先に言ったりするし。でも、あの「黙って真剣に聞く」という方がやりすぎなのかもしれない。こういうのもいいんじゃないかな。楽しむために、落語を聞いているわけだし。そこまで真面目になる必要はないのではないだろうか。

「笑顔あふれるまち 東村山土曜寄席 in 中央」

春風亭かけ橋「道具屋」
春風亭昇々「鈴ヶ森」
神田松鯉「赤垣源蔵徳利の別れ」
~中入り~
桂竹千代「親子酒」
山上兄弟
春風亭柳橋「お見立て」

かけ橋さんは、前座とは思えない高座だったので、ググって「へーやっぱり」って思った。前座時代に、「東村山土曜寄席 in 富士見公民館」で見た竹千代さん、いつもラジオ聞いてます昇々さんの、出る順番を入れ替えた二人。どちらも、枕のパッケージ感がすごい。ひどい営業ネタとか、師匠いじりの鉄板感とか。実際、爆笑が起きていたし。でも、「二ツ目の大変さ」みたいなのも感じた。ライバルが多い中で、古典をやるにしても、自分の色を出さなきゃいけないんだろうなと。その試行錯誤の時期でもあるんだろうし。山上兄弟は、自分たちで「大きくなったでしょう」と言っていて、面白かった。アニメ『W’z《ウィズ》』で声優やってるって宣伝してたよ。マジックって、目の前でみると、テレビで見るよりビックリするよね。

松鯉先生は素晴らしかった。聞きながら、この時間が終わらなければいいのにって思った。あれだけうるさかったおじさん、おばさんも黙った。第一声からずっと続く心地よさ。無知で、分からない言葉も多かったけれど、死ぬほど幸福だった。すごかった。
トリの柳橋師匠も良くて。トリッキーなことなんて何一つしていないのに、あれだけ面白いなんて。古典の強さと、真打の安心感を感じた。

大満足で公民館を出た。そして、昨日のブログにつながる。

ブログ「いらけれ」


BUGY CRAXONE『たいにーたいにー』Music Video

わるいこと とくにしてないのに かなしいな
大丈夫 そういうことが
わたしたちをつよくすんでしょ?

K駅の近くの駐車場兼駐輪場の、古びた緑の、三階か四階建ての建築物が取り壊されるという情報は、二か月ほど前から知っていた。年が明けると、停めてあった車の姿が、徐々に少なくなって、縞模様のロープが張られるようになった。ある日に前を通ると、防音という文字が大きく書かれた輝きの無い銀色のシートで、すべてが覆われていて、不気味な存在感を放っていた。
明日書くことになるだろう、明日の地域寄席のチケットを電話で予約したら、今日公民館に取りに来てくれということだったので歩いて行って、窓口でそのことを伝えたところ係の人がバタバタしていて、さっき電話したのに、そういうもんかなあと思った帰り道だった。件のシートの向こうで、取り壊しの工事が始まったようだった。それでも大きな音は、隣接する道路にまで漏れていた。僕は、イヤホン越しに聞こえてくる音に、聞き覚えがあった。


「頭痛派」は、どこかで見たことがあるような、ありきたりの物語を、しかし、毎日欠かさず伝える放送局。音楽とともに始まって、音楽とともに終わる番組などで構成されている。スタッフは一人で、スポンサーも一人。明日には、どんな世界が描かれるのだろうか。それは誰にも分からない。でも、続いていくことだけは決まっているのだ、世界がそうであるように。


中東情勢が緊迫しているとテレビで盛んに報道されていたのは、いつごろだっただろうか。あるいは僕が、テレビを見なくなっただけなのだろうか。過激派によるテロは続いているのだろうが……。今ではすっかりリアリティはなくなって、遠く隔たった地を日常生活の中で思い出すことはなかった。あの防音シートの向こうにある紛争を想像する。幻視する。実感を伴わないほど離れてしまえば、どんな事件でも僕は、空想の種にしかできなかった。
地域寄席が21時に終わって、冷たい空気と大きな月だった。聞いた落語を思い出しながら歩いていていると、あのシートに、大きな隙間ができている。紛争を探してそちらに目を向けたら、驚くほど巨大なトラックの顔が飛び込んできた。昼間には、確かに誰かが、そこで取り壊し工事をしていたのだ。いずれはすべて壊されて、そこも、更地になるのだろうか。


世界は終わってなかった トモフスキー

同じ景色を
眺めていても
昨日までとは
なにもかもが
違って見えるんだ