ブログ「いらけれ」

上に立つ人、権力者の不正のニュースがいっぱいで、普段「日本すごい」って言っている人たちは、「めっちゃ不正しててすごい」とは言わないのかなって思う。
そんなことより、とにかく「すごい人」っていて、それは量(何万冊読んだといったような)においてもそうだし、質においてもあって、素晴らしい文章をインターネットで読むと落ち込むし、あと、日記として書かれていたものが書籍として出版されている人を見たりしても、やっぱり虚しくなる。ここでは、生まれつきの能力の格差や、環境の格差といったものをどう捉えるか、ということが問われるわけだが、僕はただ、夏の暑さと同じくらいのやる気を奪われて終わり。
そうやって心の死んだあと、大いなる絶望から"ゾンビのように"立ち上がった人が、何かを成すということもあるだろうし、それを目指している。現実は一銭にもならないで終わり。冷めてんだか、燃えてんだか。

あまりにも書くことがない、一日中プロレスを見ているだけだからな。ボビー・ラシュリーとローマン・レインズの抗争の感想も特にないしな。そこまで悪くなかったはずだけど、誰も望んでいないのは確かだしな。しかし、大衆の望むものをそれそのまま形にすれば、即素晴らしいものになるかというと、そういうわけでもないしな。とはいえ、望まないものを押し付けられたら、そりゃもちろん反発するし、反感を生むのはしょうがないしな。ただ、ドリュー・マッキンタイアとドルフ・ジグラーがICベルト戦線に絡んできて、いい試合しているのには満足しているし、アンドラーデ・シエン・アルマスとSAnitYが上がってきたことにも満足しているし、NXTにはいつも満足しているし、最近の205(特にバディ・マーフィーとムスタファ・アリ!)にも満足しているがな!

「一刻も早く雑音を消してほしい。私たちは正しいのに、世界の裏側から蛮族が、誤った狂信者が、洗脳された人々が邪魔をする。」って、あなた方が思っていることは知っている。世界は終わっていて、進歩したテクノロジーで人が死ぬ。
生まれくる人々に、何を残せるだろうか。未来ある人々の問いかけに、その期待の眼差しに応えられているだろうか。夏休み子ども科学電話相談は、次の質問です。

凍らせたバナナが、その想像上の味や期待を下回ることは皆さんご存知だと思うが、しかし、それにバニラアイスを合わせると、非常に美味であることはご存知だろうか?
私はバニラバーを、わざわざバーから外すことまでして、これを食べている。本当においしい。ポイントは、食べやすいようにバナナを予め切っておくときに、あまり薄くしてしまうと、バナナ特有のまったり感がなくなってパリッとしてしまうため、「やや厚めの薄切り」にしておくことだ。あとは冷蔵庫にいれて、バニラアイスと共に口にいれて、官能の世界へ行くだけだ(と、書くほどのものかどうか、ぜひ皆さんお試しください)。

※人生に何が起こっても、どうせ死ぬまでのものだ。(今日から仕事です。明日のブログに注目だ!)

ブログ「いらけれ」

「特別編-対話のボイスメモ#4:ボイスメモを公開する。」
僕のやっているポッドキャスト「ボイスメモを公開する。」の最新回が更新されました。この対談は今回で最終回。次回からどうするかについては、まだ未定です。

制御しきれない体について……。
野球を見ていて、ピッチャーが狙ったところに投げられないということが不思議に思えた。プロになるような選手は、数えきれないほど投球練習をしてきている。しかし、どれだけ繰り返した動作であっても、同じように再現はできない。狙ったところに投げられない。意識の向こうに体があり、それが無意識に、微細に振動している。そしてそれは、制御しきれないものである。
バッターにとっては、むしろ体しかない。あなたはバッターボックスに立ったことがあるだろうか。バッターボックスにおいての意識は、カレーの福神漬けほどの存在である。意識によって、用意、準備、予測はできる。しかし、放たれたボールが迫るなかで仕事をするのは、それも飛びきり勝手にするのは、私の意識の向こうにいる私の体である。
無意識下の体を信用したり、それに裏切られたりするのは、実は日常生活で私たちもやっている(おそらく歩くだけでも)のだが、スポーツにおいてそれが、目の前にせりだしてくる感覚があって、それもスポーツの面白さの一つなのではないかと思った。

「「私がバタバタと、生きた証を残していた。道にあおむけになって、最後にないた。」という感じだろうか、路傍の蝉よ。」とでも思っていそうな顔の男が、側を通り過ぎていった。

こんなブログでも、納得いかなかったり、推敲したりしてるの、まじ笑うっていうか、本当に下らないなってなる。でも、「千文字くらいが読みやすい気がする」とか思案したりしてる。僕は、これからブログをどうするか考えていた。
昔のブログを見返すと、かなり文字数が少なくて、それはその程度しか書けなかった、長く書くことが体質的にできなかったという理由によるのだけど、では、なぜ長く書けるようになったのかというと、それは間違いなくポッドキャストを始めたからだ。
しゃべるという行為には、それ自体に制御しきれない奔放な力が内在していて、しゃべりながら何かアイディアを思いつくこと、それにはどこか「降りてきた」という感覚もあって、とにかく、頭の中の奔流をそのまま口からアウトプットするという経験は、頭の中の奔流を文章にすることができるようになったことと関係があるのだろう。だから、ポッドキャストをやめてはいけないと思うし、せっかく自由にできるようになってきたのだから、ブログは続けていかなければならないとも思う、と書く8月1日に。ああ、どっちもめっちゃ終わりそうだよ。

ブログ「いらけれ」

8月ですね。もうすぐか、緊張するなー。働き始めて、すぐ文章が上手くなったら笑うよね。あと、すぐ辞めたら笑うよね(いや笑えない)。とにかく未来は心配。何が起こるか分からない。なんにせよ、ブログは続けていくつもりでいます。精魂込めて書いていれば、読む人は読む!

「荻上チキ・Session-22」「杉田水脈議員問題をきっかけに考える。平成に起きた『右派論壇』の地殻変動とは?」
日本の中枢に、偏った言葉のサーキュレーションの中で作られてきたカルトがあることが、歴史を追って解説されていて面白かった。
色々考えながら聞いて、優遇されている人々へ"不利益を被っている立場"から行われる既得権益批判的なものと、"不利益を被っている人々へ"の「行き過ぎた支援」という言説はどうつながるのか、相反するようにも思えていたのだが、むしろストレートに、単純に、既得権益批判をしてる"つもり"なのだと理解するべきなのだろうか、などと思った。
しかし、番組を聞いても分からないところはあって、それは何故こうなってしまったのかという原因で、それを(インターネットの普及などといった)メディアの変化に求めることもできるだろうし、長く続いた不景気に求めることもできるだろう。もちろん原因は一つじゃないだろうし、とにかく、その時代精神や構造を読み解いて言葉にしていくのが、おそらく哲学とか思想の仕事なのだろうと思った。そして、その仕事が重要になっていくだろうと思った。

僕は、"日本スゴイ論"の逆張りで"日本ヒドイ論"をやりたいわけではない。どの国だってヒドイし、どの国だって固有の問題がある。日本がダメになりそうだからって、どこへでも行けるように"世界標準語としての"英語を学ぶことを否定するわけではないけれど、そうやってたどり着いた先で、ヒドイ扱いを受けないという保証はない。どこへ行こうと人間には体があって、どこかに存在しなければならず、天国はないのだから完璧な場所はない以上、どこも"どこか悪い場所"である。どこに居ようと、悪さのどれかを甘受し、悪さのどれかを変えていかねばならない。そう考えながら、この国にいる。

たまに「プロ野球ニュース」のMC席で並ぶ野村弘樹(元大洋)と稲村亜美が全く同じ顔してるって、これは周知の事実なのですか?以前「ただただ胃が痛く、そしてブログが」という記事で、「誰が誰に似ているとか気付かない」って書いたけど、流石に、隣に並んでたら僕でも分かります。

考えながら歩く、涼しい風が吹く夏の、坂の上で、遠くには山があって、点々と家があって、間に畑があって、という風景の中で聞く『風光る』の「風光る」が、最高の爽快感だった。音の気持ちよさで、ノードラッグで空を飛ぶ心地だった。ランダムで再生されて痺れた。
どうやったら聞けるのかって?それは……CDを買ってください。