ブログ「いらけれ」

業務上のことは守秘義務で何も書けません!それはつまり、何も書けないということです。
手足を縛られ、時間と経験を盗まれたブログ伯爵が、この後それにどう立ち向かっていくのか、子供向けアニメなら解決しても、現実は現実以上でも以下でもない現実。多分文字数が少なくなるよ。

ここ数日読んでいる『南の思想』という本が、めっちゃおもろいから、日本中に配りたい。日本中とまで言わなくても、友人にスキャンして送りたい。法律があるから、もちろんそんなことはできない。webページだったら、ツイッターでもなんでもシェアできるのに。でもそれは、見られるほどに儲かる広告システムがあるからで、本はそうじゃないし。とはいえ、『やっぱり本って……(以下自粛)』と心の中で思ってしまったのは事実だ。

ものすごく焦っている。細かい仕事をやる。単純作業をする。逆に、ものすごい暇である。
生きてきた労働の場面において、あの店先、オフィス、倉庫の中で、考えず働けている間はなんでもない。でも、なんでもない時間が裏返って、「なにやってんだろう」って思うときがある。
カメラが遠くなっていく感じ、分からない?焦ってようが、没入してようが、持て余して時間つぶししてようが、どれでも全部、ぼくのやりたいことではないわけで、そこではぼくの人生は、ぼくの人生ではない。それは他の人生を生きることでもなくて……。
でも、あの「なにやってんだろう」は、自分の人生を生きたいとか、夢とか希望とか、そういうことでもない。それは、「やりたいことをやろうが、なにしようが、そんなこと宇宙の時間の中にあっては、どうでもいいこと」だという、真理の理解に由来するものだ……。
目の前の現実と、宇宙創成からの時間が、中間項なしにつながる瞬間に、ぼくの中にセカイが生じる。

とにかくアルコールが、高いアルコール度数が、今の俺には必要だ。酔いどれ作家にならなければいけない(酔っているくらいじゃないと何一つ書けないじゃないか!)。理由はそれだけじゃない。やり過ごすってわけじゃないんだぜ。俺たちは不利な条件を飲まされて、押さえつけられながら仕事をしている。俺たちの命を人質にしてな。クソったれ!だからアルコールなのさ。酒は精神安定剤じゃない。睡眠導入剤でもない。怒りに再点火するためのガソリンだ。馴らされちゃいないか?拳を握って、人生をそこから始めるんだ、今。


TOMOVSKY – 我に返るスキマを埋めろ(PV)

もう何年も前に、トモフスキーを知って、この曲を好きになった。どうやって知ったのだったか、それは思い出せないけれど、今日この動画を貼った理由はハッキリしていて、ランダム再生で流れて来たから。

ブログ「いらけれ」

先日公開いたしました「特別編-対話のボイスメモ#4:ボイスメモを公開する。」の、放送後記的なものです。第四回、この特別編の最終回です(うぅ寂しい)。
「難しい話なんてごめんだ」ってリスナーたちにはぜひ聞いてほしい。今回は頭を使わなくてすむよ!

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帽子の話
「名取裕子に追い詰められそう」な「物陰から見る犯人」が被ってそうな、黒いアディダスの帽子について、その話をしてしまう?西友や近くのホームセンターに無骨な、現場作業用のもっと自分好みな帽子が、半額以下の値段で売っていて切なくなったって、その話をしてしまう?とにかく、みなさんには被っているその姿を見せたいのだけど、僕はほら、みなさんの(想像の中に生きる)アイドルだからさ。その姿を見せるわけにはいかないのでゴメンナサイ。もしあれだったら、ラジオのゲストに来てくれるなら、見せてあげてもいいぞ☆

好きなもののコーナー
「今じゃなきゃダメ」ってわけじゃないから、とにかく好きなものから、「あ、いいな」ってものまで。

ファンタスティックしほ

『ピンポン』

『愛と呪い』

『映像研には手を出すな』

『放浪息子』

好きなものは好き問題について
「好きなものは好き問題」というのがあると思うんです。で、結構由々しき問題だと思っているんです。
人が何のファンになるのは、かなり偶発的なキッカケによるのに、最近の傾向として、自分が好きじゃないもの(嫌いということではなくて)にたいして、アウトオブ眼中というか、無視するような感じってあると思っていて、世界と人間を豊かにするのは、偶発的な出会いなのだから、未知のものに心を開いておくことは大事だと思うのだけどなあ、と。「開かれるためには?」という対応策は、思い浮かんではいないんだけどね。

次回以降について
準レギュラーも決まったことですし?やっぱり、表現活動の砦として、ここは続けていくべきなのだろうとも思います。ただ、スカイプ等でこういった話をするのは〈実家〉という場所の性質上難しい(頭がおかしくなったと思われるので)しなー、一人で部屋でしゃべるの大変だしなーと、内側の番組内容の問題というより、外側の録音環境の問題が大きいんですよねえ。でも、とにかく対話が楽しかったので、僕のエゴで、また特別編も収録したいと思いますが……まだ全ては未定です。
もし、この特別編を聞いての感想やご意見がありましたら、ぜひコメント欄、もしくはtgoto27@gmail.comまでお寄せください。あなたのコメントが、応援が、次の回を録る力になります!なにとぞ、よろしくお願いします。

ブログ「いらけれ」

フランコ・カッサーノ『南の思想 地中海的思考への誘い』ファビオ・ランベッリ訳、講談社、二〇〇六年、一二二頁より引用。

いかなる国家も一人の人間の命を正当に消してしまうことはできない。なぜなら、「正当な殺人」とは語義矛盾だからだ。死刑を承認している社会は、それによって自分がより効果的に守られていると思っている。だが、じつは破滅に向かっているのである。なぜなら、その社会は死刑によって「死に抗しての連帯」という社会そのものの根底を掘り崩し始めているからである。

カミュについて書かれた章の、前後の文脈を抜いてこの部分だけを抜き出すことの不誠実さをお許しいただきたい。しかし、この文章の伝える、人間の共同性の基底が「死に抗すること」だという指摘と、それが必然的に導き出す死刑の問題点について、あなたがどう思うか、その意見を伺ってみたかったのだ。そして、あなたの考えが変わるかどうか試してみたかったのだ。
正しいか否かではなく、ただ、刺激されないだろうか。興味深くはないだろうか。その感覚こそが重要ではないだろうか、と思う。

マット・リドルのWWE参戦マジなのかなー。本当なら嬉しいなー。インディーでは、マットにぶっ刺さるような、人が死にかねないすごいプロレスをやってたけども。NXTに所属することになるだろうけれども、リング外での問題(例えばドラッグのような)がなければ、絶対人気出ると思うし、チャンピオンになると思う。特にNXTのプロレスジャンキー的な観客からならば、間違いなく受け入れられるだろうし、楽しみだ。

相も変わらず「InterFM897 Music Mix」をよく聞いているんだけども、あの途中に入るいろいろな言語のニュース?イベント情報?が流れるたびに、いつも「これいるのだろうか……」って思うということではなくて、この前、なんか都内でやるイベントに三遊亭小遊三師匠が出るという情報を英語で伝えていたのだけど、そこで小遊三師匠の名前を「コユーザ・サンユーテイ」って発音していたのだが、英語では落語家の名前も定号が後ろにくるのが正解なのか?って疑問に思ったていう話。

8時間を超える時間、座ってパソコンを見ることのできる「からだ」がそこにある。起きて電車に乗って、乗り換えや最寄駅から職場までの距離を歩いて、ドアを開けて座って8時間、それから帰路について、家に着くまでのからだ。私は意外としぶとい。今日の私はキゲンがいい。

人間は、公正に生きようとしている場面にのみ馬鹿でなくなることができて、あとはみんな馬鹿だってことが分かった数日間だった。奴らは私たちの、男/女の、共同体の、国家の敵なのではない。人類の敵であり、過去と未来を含む"人類史"の敵である。
しかし、あのような卑俗な人間たちは敵でありながら、その罪と弱さは、罪と弱さの共同体である私たちの、紛れもない兄弟なのであって、手を取り合わなければならないのである。

ブログ「いらけれ」

「おひさしぶっり~ね」と歌いながら、労働と再会した。その感想は……
追記:ま・じ・で、疲れました。暑くてわけわかんなくなるし、職場の近くに食べ物屋はないし、思いかけず肉体労働をしなければならなかったし。ですが!頑張らなきゃって奮い立つような、そんな自分です。

途中までだけど、フランコ・カッサーノ『南の思想』が面白いんで、やる気の出ない日々の中でとても助かっている。例えば、その詩的な表現のグレートな部分が分かるように、第一部「地中海」、第一章「ゆっくり歩む」の「1 歩きながら考える」から冒頭部を引用してみる。

ゆっくりしなければならない。田園を行く古い列車や黒衣をまとった農婦のように。徒歩で進み、世界が魔法の力によって開かれるのを目の当たりにする人のように。なぜなら、歩くとは本のページをめくることなのに、急いでいるときには本の表紙にしか目を留めることがないから。ゆっくりしなければならない。これまでにたどってきた道を眺めるために立ち止まることを愛で、メランコリーのように手足の力が疲労によって奪われるのを感じ、進むべき道を行き当たりばったりに決める人々の甘美なアナーキーをうらやまなければならない。

翻訳を含めて、この思想書感がなんとも良いなあとも思うし、第二部「ホモ・クーレンス(走り続ける人間)」に属する第四章「走行の原理主義」のところは非常に刺激的かつ示唆に富んでいて、短くまとまった異文化関係についての文章として、西洋の自由の原理主義が生み出す負の側面を書いたものとして出色の出来だと思う。
本当なら、いろんな人の読んだ感想が聞きたいし、なんなら読書会を開きたいくらいだけど、どこにも売ってねーっていう。流行りから目をそらして、独自路線を行く辛さってやっぱりあるなあ。

保坂和志さんのツイッター、上げられた手書きの原稿を見て、一度書いたけど止めたこと、書かれた文字が線で消されているその痕跡がいいなって思った。やっぱり痕跡だよな。書かれたことしか分からなくなってしまうこと(それはしょうがないんだけど)に対して、書き手だけは、結局書かなかったことを頭の片隅において、それに影響されることができる。全て、書かれたものには幽霊がついている。その幽霊が生きていたころの実体と関わりながら書く。
僕の書いて消したもの、このブログの結局書かなかったことのほとんどは削除されてしまっていて、それは少し寂しいことのような気がした。

皆が、あらゆるニュースにたいして見知ったことを言えるのは、その当事者ではないからだよな、なんて身も蓋もないことを思った。知ること、語ることによって近づくわけではなくて、むしろその出来事のリアリティから遠ざかっていくってところもあるなと、そう思う。