ブログ「いらけれ」

起きたら腹が減っている。夜中に映画を見て、帰ってそのまま寝て、昼近いから無理もないか。何も考えないことにして、台所に行くとカップヌードルがあったから、お湯と、冷蔵庫にあったキムチと、コチュジャンと、あとラー油と、コショウを入れる。別に、いつも入れているというわけではない。とにかく食べ物で実験したいと思っている。一度でも食べたものは、少しでも味を変えて楽しみたいと思っている。あと、味が複雑であればあるほど良いと思っている節がある。混じり気のない綺麗な透明なスープこそ至高、みたいな考えとは、まったくもって反対だ。それは人生についてもそうだし、思想についてもそうだ。複雑で、分析しきれな余剰を含むような、数多の引用を含むような、ペダンチックなものが好きだ。こんなことを書いているうちに、3分たったから食べた。


気だるい午後には高校野球の大きな大会の決勝をやっていて、僕は高校野球には、本当に興味がない。プロは好きだし、やるのも好きだし、深夜の馬鹿力リスナーだというのに。これはただ、ただただ気質の問題で、生まれつきそうだったと思うしかない。物心ついてからこっち興味がないのだから。今日返却しなければならない本を読みながら、一応テレビをつけて、戦況を追う。ワンサイドゲームになってしまっていて、そして、世間的に不利だと思われていた方が負けている。こういう時、大勝している方がなんだか悪者というか、ヒールになってしまうのは気の毒だ。気を抜くと逆転されるかもしれないのだから、選手は何点差でも一生懸命やる。何点取っても安心してはいけないし、油断は禁物だということが徹底されているチームだからこそ、決勝のような大きな舞台に立てている。とはいえ、判官びいき的なところは、誰にでもあるものだ。


本を読み終えたから、試合はまだ続いていたけれど家を出る準備をする。僕は図書館へ向かわなければならない。間際に、水分補給をするために台所に行くと、昼にはなかったそうめんが置いてある。僕は、スマホで「東京ポッド許可局」の「そうめんわかった論」を聞いていたところだったから、ビックリして写真を、ニヤニヤしながら撮った。


外は、久しぶりの暑さだったものの、いい風が吹いていて助かった。こんな日は、やっぱり働かないにかぎる。図書館には借りたいと思える本がなかったというか、ピンとこなかったから、その後の予定を変更して、市内の別の図書館へ向かった。本当は、最近気になっているシチュアシオニストのことを調べたかったのだけど、どの本を読んだらいいか分からないまま、美術の棚の前にいたら、『ぐっとくる題名』が、めちゃくちゃそこになさそうなのに並んでいて、気が付いたら借りていた。明日から読もう。


歩きながらも、サイトのアクセス数が気になってしまう。今日は一段と少ない。検索から流入してくる人は、かなり運みたいなところがあって、日によってその数が大きく違うことを、僕はサイトを作ってから知った。明日はたくさんのアクセスが来ますようにと、祈りながら寝るのはどうだろう。祈りは通じないだろうけれど。


家に着くと、そうめんが茹で上がっている。ありがたくないことも一杯あったけど、ともかくこれは、ありがたいことだ。すすりながら、広島-ヤクルト戦を見る。おいしい。ありがたいことだ。今日も最後にキムチを入れてしまったりして、食に対するスケベを丸出しにする。家の食は恥ずかしいものです。


野球は、劇的な展開でヤクルトが逆転勝ちをする。僕はそれまで、その試合の解説の前田が、解説ではなく広島の応援をずっとしていたから、音声を消していたのだけど、逆転したあと、さらなる追加点をバカバカ取っているところは音量を上げて、その反応を聞いていた。自分にはサディスティックなところがあるなあと思った。

ブログ「いらけれ」

一度フォローして、それから嫌いになってリムーブした人の、何が気に食わなかったのかは忘れてしまっていて、単純な憎しみだけが残っている。それまで心の内になかった憎しみを、新たに生み出すことにかけては、SNSの右に出る者はいない。やっているのはコミュニケーションではなく、感情の極端な増幅なのだと分かっておくこと。

愛とは言うけれど。愛は、相手の嫌なところも受け止めてこそ愛なのであってみたいなことも言うけれど。応援している球団が情けない試合をして、何度も何度も負けていても、それでも応援するのが愛だとか、僕も思うけれど。誰かを好きになったとして、それから愛するようになったとして、それから好きになったきっかけだった何かが変わってしまったとして、それでも愛するべきだというのはまったくもって正しいけれど。でも、愛するきっかけになったものが全て失われた何かを愛するというのは、それはもう執着でしかないような気もするし。愛する相手が、僕に嫌なことばかりするように変わってしまっても、僕はそれを愛し続けるべきなのだろうか?

人の心を操作してグッと引き込むとか、感動させるとか、そういうことが足りないのは分かっている。みんながそういうのが好きなのもさ。でも僕は、文章を使ってそれをしている人に対して、警戒感を持ってしまうし、忌避してしまう。ミスディレクションは、手品師に任せておけばいいと思う。僕の思い通りに、意図通りに心が動くのではなくて、勝手に何かを思ってほしい。ライターには向いていないらしい。

替え歌が好きなんですよねずっと。「伊集院光の深夜の馬鹿力」のコーナーで、今なら「あの歌はこう聞こえたら、もうオシマイ」も好きだし、あれを楽しみに聞いているようなところもありまして。とにかく「青春時代クソミュージックボックス」が好きで、もう全部を通しで4~5回聞いているわけですが。だいたい空で歌えるっていう。
何故替え歌が好きなのか、そこにしかない言葉のジャンプが好きなのかなと思います。替え歌は何を言っても自由だから、替え歌には、普通無いようなシチュエーションであるとか、普段口に出されないような文章が歌われるという、そういうナンセンスな感覚というのがもともとあるわけですが、もう一方には、元曲との重ね合わせ、結婚式の定番曲をまったく違う歌詞にすることによる、元曲とのズレの面白さのようなものがあり、二つの意味で"変な言葉"が聞けるんですね。また、その変な言葉が、音、メロディといったものと、まったく新しい関係を結ぶところも、インタレスティングだなあと、そう思うんです。
急ですけど、「青春時代~」で僕が好きなのは、うーん全部いいけど、やっぱり「Boy Meets Girl」とか、「どんなときも。」、「青春時代」、「ラヴ・イズ・オーヴァー」、「さよなら人類」とかですかね。ネットのどこかにあるので、ぜひ探して聞いてみてください。

ブログ「いらけれ」

ツイッターを見ていると、いろんな出来事や事件が、有名人や文化人のコメント付きで流れてきて、本当に簡単に"知った気になる"よね。まったく元記事を読んでいなくても、知った気になっているものっていっぱいあるもの。でも、"本当に知る"こととの距離は、余計に離れてしまったと感じる。新聞記事を熟読し、他の記事も調べて比べ、自分でゆっくり考えるとか、そんな時間を持てる精神的、時間的な余裕と、そんな聡明さは、ほとんどの人にはないわけでね。すべてが早くなっていくことで大事なものがゆっくりと壊れていく感覚。ツイッターはもう潮時なのか、SNS全体がダメなのか、そもそも人間同士のコミュニケーションが終わっているという感じもしないでもないが。

「すべての論争は、立場のやり取りをしているだけである。」とまでは言えないとしても、"私"を透明にして、言説のみ批判しているように見せていても、結局裏側に金や名誉や縁故や私怨があったりするわけで、陰謀論者になれと言っているのではないが、すべてから距離を取って、半信半疑で考えるのが大事だよね。

めちゃくちゃ映画に詳しいそうな話しぶりの人が、ヴィスコンティだけ知らないみたいな、そういう瞬間って極稀にあって、そういう知ってそうなことを知らない、知識に穴が開いているっていうのが、僕好きなんです。だって、面白くないですか?なんだか、ぞわぞわしませんか?まず、知ってそうという予断を、勝手な先入観を自分が持っていたことが面白いし、それに、都合よくそれにだけ出会わなかったその人の人生が面白い。

涼しい日が続いている。駅ビルの中の本屋に、新興宗教の教祖が書いた本のコーナーができている。つまらなそうなベストセラーが並んでいる、ベストセラーがつまらないと本好きが言う、それならばその状況を変えるべきだし、なんでそうなっているかを考えるべきだ、とか、そんなことを思っていた。そういえば、ここに向かう道の、その途中の店が軒並みなくなっていた。囲われた更地になっていた。道路を拡張するんだそうだ。自生的に、生えるように建っていた店を、刈り取ってしまう暴力。しかし、自然のままに任せていると、繁栄はいつか衰退していくのも確かで、計画と偶然のあわいに、目指されるべき理想があるのだろう。

誰も見なくても書くつもりとはいえ、やっぱりアクセスやクリックがあると嬉しい。皆さまのやさしさのおかげで生きています(つまり、やさしくしてくださいということです)。大幅に生き方を変えたりはできないけれど、少しずつなにかチャレンジして、トライしてみたりして、それが誰かのためになればなんて思いながら書いたり、話したりしています。

ブログ「いらけれ」


TWICE「BDZ」Music Video

わたくしのファンとまでは言わなくても、いつも見ていただいている方々、仮に「頭痛派」と呼ぶこととしますが、「頭痛派」の方々なら、"識者"としてコレにどうコメントするのかと、思っていただいているかと思うわけです。
木曜日、労働から帰ってきたらコレが公開されていまして、もちろん即チェックいたしまして、ぶっ飛ばされたわけです。そして、混乱。あるいは、昏倒。
それで、未だに考えはまとまっていないわけでして、結構エグイ階段落ちのシーンは「ホームアローン」パロディ?であるとか、ダクトから侵入、敵をトイレにって「ミッション:インポッシブル」パロディ?とか、壁を壊すのは「Candy Pop」のMVでも出てきたモチーフですねとか、思うところはあるわけですが、みんなが気になっているのはそんなところじゃないでしょ!?全体的になんか"ユルい"ところでしょ!?
いつか、なにか思いついて、なにか書けるように、日に二度くらい見て考えてみますが……コレ、ほんとなんなんだろう。

そう、その木曜日だった。僕は仕事帰り、電車にのっていた。準急はどこかの駅で、急行待ちか何かで止まっていた。開いたドアの向こうに、嘔吐している人が居た。とりあえず降りて、「大丈夫ですか」と声をかけたのは、若い女性だった。おじさんなどではないだろうとは思っていた、でも、若いことは近づいて分かった、その瞬間僕は、頭がフリーズし、介抱の手を出せなくなった。触れられたくないだろうと考えてしまった。それで、「よかったら使ってください」と、ティッシュだけ置いて(彼女の手は汚れていた)、電車に戻った。
電車が発車する前に、対応を間違えたことは分かった、どうすべきだったのかに思い至るまでには時間がかかった。「大丈夫」というようなことは言っていたけど、大丈夫だったら人は吐かないわけだ。だから、急激に体調が悪化する可能性にも気を付けつつ、人を呼ぶ、周りに助けを求められそうな人がいなければ、駅なのだから駅員を呼ぶべきだった。咄嗟のアクションができなかった。
あの人がもし、あの後あの駅でもっと体調を崩していたら、などと考えると後悔しかない。僕は辛うじて生きているから、反省できる。近くにあってほしくない、体調を崩す人など出てほしくないけど、また似たような機会があるかもしれない。その時はもっと、ちゃんとできるようにと思う。
ただ、例えば嘔吐している人が、見た目に非常に汚れていたりしたら、助けようと思ったのか、それすら思わなかったのでは?と、考えてしまった。どんな人でも助けるべきだと頭で分かっていても、ゲロまみれのおじさんだったら、本当にそれができただろうか。自分の精神はそんな高尚ではなくて、本質は差別主義者なのかもしれない。誰でも助けられるような人になりたい。

「InterFM897 Music Mix」を聞いて良いなって思った「KAINALU-LOVES ON THE TRACK」はYouTubeにはなかった。そもそも情報がほとんどなかった。同じ名前の別のアーティストのものは出てくるけど。検索力を発揮して、Kainalu Busqueという人だということが分かった。また「ReverbNation」というサイトで聞けることも分かった。ただこれは、紹介していいやつかどうか分からない。なので、別の曲の演奏をしている動画を貼っておく。本当に情報が少ないわけだが、この人はもう、音楽活動はしていないのだろうか?だとしたら、とてももったいないが。


Kainalu – Turn Your Lights Down Low (HiSessions.com Acoustic Live!)