ブログ「いらけれ」

「リファラースパムを仕掛けてきている方、許していただけないでしょうか……。」っていう気持ち。最近は毎日のようにやられている。弱小サイトだからこそ、普通のアクセスが少ないので目立つからこそ、狙われているんでしょうか。僕は臆病なので、そのサイトへ行くことはありませんよ~って、別に読んでるわけじゃないだろうからなあ。根本的な解決法もないみたいで困っている。

寝て、起きたときに思ったこと。自分の経済嫌いもすごいところがある、経済嫌いというか、金儲け嫌いというか。
セドラチェクがテレビ番組で価値のおかしさを言っていて、ペンを100円で取引する場面があるとして、そのペンには100円以上の価値があると思うから買い手は買う(そうでなければ買わない)わけだが、売り手は100円以下の価値だと思って売る(そうでないならもっと高く売るか、売らないはずだ)わけだ。つまり、取引の場面において、買い手と売り手はすれ違っている"のに"、しかし、どこかで価格が定められるという、不思議な状況が起こっている。
そもそも、そう考えるのであれば、買い手になることも売り手になることも人を騙すようなところがあるわけで、それは落語の「猫の皿」なんかは、高いお皿を安く買い取ろうとする(そして失敗する)分かりやすいお話しになっているけれども、でも、普段の買い物でも、実は似たようなことをしているんだっていうことで、だから、資本主義が嫌いなのかもしれない。
で、まあそれはいいとして(笑)、儲けてる人、本当に儲けている人っていうのは「上前を撥ねて」いるわけじゃないですか。会社とかだって全部そうだけど。任侠もので、仁義とかいって犠牲になる誰かによって、上の奴が得をするのとか本当にヤダ。でも現実社会は全部そうで、それが本当にヤダ。
自分の労働が搾取されるのとか本当に……って、だから資本主義が嫌いなのね、分かったよ。

台風の図書館前で、なんかびっくりするほど落ち込んだ。
明日から仕事だからだろうか。ヘイト本が並んでいたからだろうか。ちょうどいい思想書がなかったからだろうか。貼っても貼ってもポスターが剥がれるからだろうか?それとも台風で心がざわついているからだろうか。
台風の強い風と、細かい雨を浴びながら、早くお金をもらって文章を書きたい、物書きとして暮らしたいって思っていた。


映画とプロパガンダ【WOWOWぷらすと】

面白く見た。良い回だったと思う。
プロパガンダといわれるようなことは、全て悪なのか。そもそも芸術を作る動機の中に、人に何かを感じさせたいというものがあるとしたら、そしてそれを全ての観客に伝えたいと思っているのなら、それはもうプロパガンダなのではないか。良いことならプロパガンダしてもいいのか。むしろ、良い考えなら積極的にプロパガンダするべきなのか?
「プロパガンダだからダメ」と、「良いことならどんな表現をしてもいい」の、その二極の中に答えはなくて、その間で揺れること。定位しないで悩むことにしか、私たちの正義はないと思っている。

ブログ「いらけれ」

「カメラを止めるな!」を見た約15時間後、まだその余韻の残るなかで、「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」を友人に誘われて見てきた。約2時間半。帰りの電車と飯食いながらのツッコミ大会、1時間半。いや、すごい映画だったですよ。だって二人で思い返しても、敵側が重要なアイテムを手に入れた大事なシークエンスが思い出せないんだから。っていうか多分、大事なシークエンスがないんだから。2時間半あるのに。
終演後のトイレで、若いにーちゃんが「難しくて分かんない」って言ってたけど、敵味方(また、内通者や裏切り者)が入り乱れるその内容は、確かに一回見ただけで理解するのは難しく、しかし、映画の見どころは大きなアクションシーンなわけで、そのミスマッチ感はなんとかしたほうがいいかなと思う、シリーズとして。
見どころであるアクションはすごくて、それは否定しようのない、この映画の美点だ。特にクライマックスでは、4回くらい「死んだだろ」って思った。トム・クルーズは死にたがりなのだろうか。
その他、細かいツッコミどころを上げていったらキリがないくらい(特にウォーカー問題な!)だけど、もしこれから見られる方がいるとしたら、「バカになって楽しむべきだ」とアドバイスしたい。気にしたらいけない。疑問を持ってはいけない。
とにかく、最初の格闘シーンで、相手と組みあい後ろにくるっと回って床にたたきつけるあの技が、「スパニッシュ・フライ」という名前だ、ということだけ覚えて帰ってください。

映画館でさ、クスッと来る笑いどころで、一人声を上げて笑うおじさんがいてさ、友達とその話にもなったな。全員が同じところで、同じレベルで笑うのも全体主義的で怖いんだけど、落語界でもそうだけど、一人の変な笑いで空気が壊れるっていう面もあるから難しいよね。でも、やっぱり唯我独尊はやめて欲しいって思っちゃうな。
最後の感動シーンで、そのおじさんはすすり泣いていた。他には誰も泣いていなかった。その唯我独尊っぷりにギョッとした。

ミッション:インポッシブルにツッコんでいた中華料理屋で、初めてドラゴンハイボールなぞ飲み、美味しい麻婆豆腐を食べ、楽しく解散して帰ってきた部屋が、その中華料理屋と全く同じ匂いでびっくりした。誰かが、僕の知らない内に、この部屋で中華料理屋を開いているのかもしれない。

死ぬまでにもう少しマシな世界を見たい。醜悪な言説を垂れ流す人々に足りないのは、間違いなく他人に対する想像力だ。それは間違いないが、「だから小説(映画、アニメ、ゲーム……)にたくさん触れるべき」っていうのも「おたく」の自己弁護だと、そう感じてしまう。そういったものに触れながら、ヘイトしたり差別したりする人々も、いっぱい見てきたから。
答えなんてないんだけど、戦い方を考えなければならない。

ブログ「いらけれ」

人生のテーマがどこにあるのか。人生の真実とは何なのか。人生の実相は誰にも、分かろうとして分かるものではない。書くことが、それに漸近することだとしても、どうしても言いたいこと、言わなければならないことは、必ず向こうからやってくる。コントロール不能な、出会い頭の事故のような。僕たちができることは、来るべき「その時」のために、普段から不断のウォーミングアップしておくことぐらいだろう。言葉が別の言葉につながる「その時」まで。

八時間の労働を終え、朝から迷っていたが(「auマンデイで1000円で見られるけど……仕事終わりは疲れてるだろうしな……22時30分スタートだと終わるの遅くなるしなあ……」)、面白そうな方に行くことに決めたので、「カメラを止めるな!」をTOHOシネマズ新宿で見てきた。まだ労働二日目だというのに、頑張ってしまったのである。
で、映画だが、ネタバレしていなくても、「ネタバレ禁止」という言葉を使うことで、もうネタバレしてるようなところもあるし、「そういうどんでん返しがある映画」ってことも伝えてしまっているわけで、それが先入観になるって部分も大きいわけだが、でも、それでも「カメラを止めるな!」は、そういう先入観や期待を超えて面白かった。ネタのみならず、演出や演技も良いなと思えた映画だったし、あの映画が作られるクリエイションの現場に居たかったと、表現者なら思うのではないかという、そういう力を持った映画だと思った。そらTシャツも売れるでしょう(私も欲しい)。
それで終わって、走って、思い出しながら走って、24時20分終演で、西武新宿24時28分の電車に間に合った。けっこうなダッシュだった。面白いものを見ると元気が出る。家へ帰れる終電一本前の、その電車に一生懸命走って乗って、帰ってからしたのは、残り物の一つに固まってしまった素麺をほぐして食べることだった。走った意味、あったのか……?

所要のメールで「○○さん、お疲れ様です。後藤です。」と打ち込もうとするたびに、「です」を「でうす」と間違えて、それで変換して、「後藤デウス」ってなって、休憩時間にコンビニに行く道すがら「後藤デウス……」とあらぬ方見上げてデウス(=神)のことを考えたりしている人のブログが面白いわけないじゃないですか!

「日本列島“密漁”最前線!」TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」
密漁の話(そんなに稼げるんだ……)も面白かったんだけど。そんなことよりナマコ、砂食ってんのか……。毒があって魚に食われず、逃げなくていいからほとんど筋肉もなく、エネルギーを使わないし、砂の上にいて砂食ってて餌もいらないから、感覚器官も脳も心臓もないナマコ……。未来の人間の姿を見た。

ブログ「いらけれ」

『南の思想』を読み終えた。現代と人生に対する思想的探求の痕跡としてあったその本は、啓蒙的でも啓発的でもあって、読むことによって世界への理解が深まった(気がしている)。あまりに素晴らしかったので、せめてその一部でもと、本の訳者による著者へのインタビュー部分から、かなり長いが抜粋して引用(の範囲を超えている気がするけど)してみよう。イタリアで行われている、伝統を再評価するイベントに、ミュージシャンたちが参加しているという話題から。273-4ページより。

「タランチュラの夜」は、伝統の再発見でもありますが、再発見される伝統は不変の伝統ではありません。なぜなら、このイベントは過去の音楽を現代の音楽と関連させる力をもっているからです。この祭りに、さまざまな音楽を横断して新しい音を目指してきた、新しい音楽の形態をつくろうとしているミュージシャンたちが参加するのは、偶然ではないです。ワールドミュージックの制作は知的な作業の多くのヒントになりそうです。ワールドミュージックの制作も二つの異なった、しかし依存関係にあるプロセスを包含しているのです。一方では、あなたは自分の音楽を世界の音楽のなかに入れることができるが、もう一方では、世界の音楽が自分の音楽のなかに入っていくのです。このプロセスでは、あなたの声、あなたの音色が他の人とあなたを差異化しますが、それと同時に、あなたが世界の音楽のなかに入っているということで、これらの音楽があなたの伝統との関係を豊かに、ダイナミックなものににするのです。自分を喪失しないで、自分を他人に植民地化されないで、また、従属的な同質化もアイデンティティーの自閉も回避しながら、グローバリゼーションのただ中にいる――このゲームで敗北しないためには、他者と連結を結んで、地域主義とナショナリズムを乗り越え、自分の魂を広くしなければなりません。

一読すればお分かりだろうが、「音楽」を「文章を書くこと」に置き換えられそうだということも、この部分を引用した理由の一つだが、それだけじゃない。「自分を喪失しないで~」以降の文章がそのまま、この本の主張を、テーマを、完結に説明していると思ったからだ。いかに「過度」、「原理主義」を逃れ、「適度」を実現するのかということ。
読書に満足しながら、読後に陶然としながら『南の思想』を返却しに初めて行った市内の図書館には、読みたい本が一つもなくて、そのことにとても驚いた。図書館のラインナップの差異……今度はまた別の、まだ行ったことのない図書館に行ってみよう。

「アマゾンでウォッカを」って、なにかキザな言葉を書いたんじゃない。あのウェブサイトのアマゾンで、安いウォッカを注文したのだ。配達されしだい飲んで、飲みながら生きて、飲みながら書いてやろうと思っている。あと、モバイルバッテリーを買った。2000円以上の注文で送料無料になるからっていうのもあるし、仕事に行くと意外とスマホの電池が足りなくなることが分かったから。だいたい、いろんなことが意外で、思ってもみないことばかりで、何事も試してみるまで分からないことばかりだと、心に留めておく必要がある。

「村上RADIO~RUN&SONGS~」
「こんばんは、村上春樹です」の第一声で爆笑してしまった。すっごい素人のおじさんが、普通のおじさんがそこにいるって感じなわけだが、だいたいの人が普通のおじさんなわけで、でも普通のおじさんはラジオの冠番組とか持てないから、その違和感と言うか、見つかっちゃった感が面白かった。