ブログ「いらけれ」

僕が、あの輝かしい瞬間の夢から覚めたとき、ここのところずっと「そろそろやりたいなあ」と考えていたサイトリニューアルやネット上のキャラクター変更について、やっと決心がついた。そんなことしたってアクセスが増えるわけないし、しょうがないのも分かっていて、でも、工夫をしてみること、取り組んでみることは大切だからさ。インターネットによって、数多くの名作が無料で読めるようになった時代に、この日記が、誰にも読まれるべきものではないことを知りながらも、それでももう少し、読まれてみたい、読まれたら嬉しいと思っている自分がいて、今はローソンにチケットを取りに行かなけれならなかったりと忙しいから、6月中に何とかしよう。

「ゴエツドウシュウ」に行ってからというもの、ユーチューブでよくAマッソの動画を見ているのだが、村上とロレックスなのは犬山紙子だと思って、それでツイッターを検索したら、2018年に同じことを言っているのは1人だけだった。

誰かが良いと言っているから良いというのは違うのだと、自分が良いと思うかどうかだろうと思って、でも、自分が何かを良いと思うその基準は、子どもの頃に誰かが、または皆が良いと言っていたから良いと思うようになったり、あるいは天邪鬼に、誰も良いと言わないから良いと思うようになったりしたことによって作られたもので、だから全然、何一つ自由じゃないんだ。

耳かきの害が盛んに話題となっていたとき、たまたま読んだ記事で、「イヤホンをつけっぱなしにするのもよくない」と書いてあったから、その日に「オープン型オンイヤーヘッドホン」というのを買った(このタイプのものは、中学生の頃にほんの少し使っていた時期があったが、それ以来だ)。以前から耳の中が痒いと思うことが多くて、もしかしたら、起きている時間のほとんどで、カナル型イヤホンをしていることが原因かもしれないと思ったからだ。音漏れ的に、外で使うのは厳しいかもしれないが、家で動画を見る時は、これで音を聞くようにしたら、耳が痒いと思うことが少なくなった気がする。

散歩中に、閃くように思ったのは、僕は、自分が不当な扱いを受けることは当然のように嫌だけど、自分に有利な不平等も居心地が悪くて苦手なのだということ。右手には「きつねっぱら公園」というのがあって、昔は、犬は犬畜生なんて言われていて、狐は神様のように信仰されていたのに、今はこうだから、時代って変わるんだなって思った。

ブログ「いらけれ」

今日の体育は、バスケットボールだった。子どもの頃から、キャッチボールやPK戦で父と遊んでいた僕は、太っていたからスピードもなかったし、息はすぐに切れたけれども、球技は得意な方だった。ボールを上手に投げられるのは、結構特別なスキルであるということを、小学生の僕は理解していなかった。自分にできる程度のことは、誰にでもできると思っていたのだ。だから、野球の授業でセカンドを守っていたときに打球が頭を越えて、ライトの岩崎君がそれを追いかけ拾った後に、中継に入った僕に向けて、ぎくしゃくとしたフォームで投げたボールがあらぬ方向に飛び、地面に叩き付けられたとき、「何してんだよ」という言葉と、冷たい視線を投げ掛けてしまった。僕はこの後、多くの人にとっては簡単な、毎日中学校に行くということすらできなくなるというのに。

球技が得意なことと、ボールが回ってくることは違った。運動ができると認識されている人たちの間を、あの大きくて硬い、ぶつぶつとして、ボンッと跳ねるボールは行き来していた。なのに試合終了寸前、それは僕の両手の間にあった。しかし、どういう経緯でそうなったのか、まるで覚えていない。僕は、なるべく周囲に迷惑をかけないこと、下手なプレーをしていじめの対象にならないことだけに集中し、頭を使っていたからだ。パスかこぼれ球か、いずれにせよ、とにかくこうなってしまった。何とかするしかなかった。探せばパスコースはあったはずだが、無かったのは時間で、「打て!」という大きな声が聞こえた。これでシュートしなかったら、僕はどうなるか知っていた。ディフェンスをする同級生が目の前にいた。彼の手の向こうに、ゴールがあるはずだった。見えないそこに向かって、両手で飛ばしたボールは、大きな弧を描いてストンッと、赤い丸の中に吸い込まれた。それは、チームを救う値千金のゴールとなった。正直言って自信はあったし、いつも「僕にパスしてくれれば」と思っていた。でも、実際に決めたことはなかったから、奇跡のような現実にうっとりしていたけれど、それを悟られてはいけないキャラクターだったから、試合終了後に僕の所へ来て、「すごかった」とか「やったな」という皆に、それがいかに偶然の出来事で、自分でも驚いているのかということを、一生懸命説明した。

あの、僕にとっては特別な瞬間。でも、他の人にとっては特別ではない出来事。そこにいた誰もが、忘れてしまったことだろう。しかし、僕だけは忘れることができない。そのことを表すように、酒を飲んだ夕食の後にテレビを見ながらうとうとして、ついには1時間ほど眠ってしまった僕は、あの日を夢に見て、それはスローモーションで、美しいゴールだった。

ブログ「いらけれ」

今日から正気に戻ろうと思う。なぜなら、午前3時に日記を書き終わって、「ああ、正気に戻った」と思ったからだ。しかし、ここで言われている正気とは何だろう。正しいという言葉が入っている。その正しさとは、誰にとっての正しさなのだろうかと、シャワーから噴き出る水の下で長いこと考えている僕は、水道代をびた一文払っていなくて、生きているだけで無駄な存在の正しくなさ。暴走した何かが、ここに突っ込んでくれないだろうかと思う。

些事に悩む期と、悩みごとが些事だと気づく期が交互に来て、僕がこうして、親の庇護のもとで、薄ぼんやりと生きていることが、誰かを傷つけているのかもしれないとしても、やりたいことぐらいはやらせてほしいし、それだけをやりたい。やりたいことをやれること、それを邪魔されないことだけが、僕が社会に望むものだ。勲章も賞も承認もいらない、心の一等賞は自分だ、だからそれは自己調達できるのだ。言うなれば、"承金"がほしいのだ。暮らせるだけのお金さえあれば、ただ書いて暮らすだろう。

「明日のアー」主宰の大北栄人のツイッターで、「ヨーロッパ企画の暗い旅」という番組のフルバージョンがいくつか、公式でユーチューブにアップされていることを知って、それを見ていた。「ヨーロッパ企画の暗い旅ポータル」は好きでずっと見ていたから。

ヨーロッパ企画の暗い旅 #8「SAKEKE完全制覇の旅」(2011年4月13日放送)
これと、

ヨーロッパ企画の暗い旅 #129「中川さんの頭に象のじょうろを乗せる旅」(2016年7月9日放送)
これの最後の方で、見てもらえれば、どこで笑ったか分かると思うが、すごい笑った。ライブとかではなく、動画で声を出して笑ったのは久しぶりで、幸せな気持ちになった。だから、繰り返し3回は見た。それから、「馬のいななきで目をさました」というオープニングテーマの歌詞が、頭から離れなくなった。我々「暗い旅」は、とてもいい曲だなあ。

TWICEの「Breakthrough」と「HAPPY HAPPY」は、もちろん見ているし、言いたいこともあるのだけれど、うーん。ある種の芸術家に許されているような、自己模倣を繰り返すだけで、それが売りとなって生きていけるような優しさは、アイドルというものにはなくて、新たなコンセプトを打ち出し続けなければならないという地獄を、スタート地点から走っているのだなと思った。あと、楽曲という重要な要素を、人に任せなければならないのも、彼女たちが努力しようのないところで評価が下がってしまうという面があって、非常に辛いよなと思った。

「明日の日記は思い出について書きました」というねじれた文章が、しかし本当。

ブログ「いらけれ」

予想以上に、
予想以上に、
夢は夢で過ぎてく?
でも、どうだろう?
残るだろう?
そこ、ひとつ。
君さ。君の灯り。

中村一義「新世界」

彼女が一つ、くしゃみを高い音でした、電車内にその音が、絶対音感を持つ男がファだと思ったとき、そこは東京ではなかった。線路が近くを通っていた赤い工場では、かまぼこで、蟹が作られていた。東京で並べられていた人々は、カップの底に沈んだ黒い粒を、メルカリに出品したらいくらになるか分からなかったから、閉まったシャッターに鼠を書いたことでバンクシーを目指した。僕は、バンクシーを崇めるよりバンクシーになるべきだ、バンクシーになるということは、バンクシーの真似をすることではない、新たな固有名を獲得することだと思った。例えるならばそれは、動物園のなかで、二本足で立ったレッサーパンダだ。子どもの頃、スーパーの屋上で見たレッサーパンダは着ぐるみで、28歳のアルバイトが入っていた。彼は六畳一間で寝起きしていなかった。起きなかった。二度と目を覚ますことがなかった。天国への永住権が受理されたら、あなたは移住しますか、それとも高速道路の下で、腐ったベッドで寝起きしますかと壇上から問われた。授賞式でスピーチしていたのは、宇宙人だった。僕らは宇宙人と呼んだが、宇宙人にも名前があった。中浦和。潔癖症。凝固剤。濾過槽。平清盛。ゴレンジャーみたいに5色に分かれていた。僕がそれを撮影した。部屋のなかには、等身大のマジンガーZのプラモデルが置かれていた。スピーチはまだ続いていた。アフタートークには、いるやつと、いらないやつがある。誰もが頷いた。トークはテクニックだった。人心を掴むのは簡単だ。科学的にアプローチすればいい。あなたは、詐欺師の口ぶりに深く納得し、彼のまなざしに魅せられた。詐欺師を滅ぼすべきだと思った。僕が詐欺師を滅ぼすためには、人語を解する必要があった。世界にある言葉が分からない。文字の連なりは、縦に14㎝、横に16㎝と、どんどん伸びていたが、僕の頭は余計に混乱するばかりだった。窓の向こうの、ストロベリームーンが輝いているはずの空には、たくさんの雲が発生していた。僕の未来のように何も見えなかった。夢が叶わないことは、大きな問題ではない。夢を持つことが問題なのだ。真理が脳髄を撃って倒れた男は、もう二度と、多くのことを考えない。梅雨の夜の壁を這っていた無数のなめくじみたいだなと思った。