清く正しく
とても大事なことが書かれていても、そのことが分かる人は、とても少ない。これは昨日書くつもりだった、『すっぴん!』2019年4月22日の放送で、「今月8日の放送で、カツラを使用する方に対して、配慮の欠ける内容がありました」とお詫びしていた。このことが、一つのギャグのように聞こえてしまうあたり、「カツラ」という物には、未だにチャーミングさがある。
何かを言うことは、今はとても難しい。あの時は「カツラが飛んじゃった先生」というようなエピソードの、リスナーからの投稿を紹介していたと思う。投稿自体の内容と、それを受けてのトークは、とても普通なというか、差し障りのないものだったと記憶している。
僕は太っている。太っているということも、ある種のチャーミングさを孕む瞬間は間違いなくあって、それで得をした場面もあった。しかし、いじめや差別的な扱いを受けることだってあったし、暴言を吐かれることだってあった。僕が太っているのは、ただの怠惰だから仕方がないと思う一方、でも、物心ついたときから太っていたのだから、生まれつきの体質という面もあるのだろうと思う。
髪の毛がなくなる、ハゲるということ。そして、カツラというものに言及すること。抗がん剤治療の副作用には脱毛があって、つまり、生まれつきの体質や大きな病気などによって髪の毛がないので、カツラを使用しているという人がいる(ただし、「そういった人は、あの放送を聞いて傷いたに違いない」だとか、「ショックを受けたはずだ」と決めつけるのも、当然おかしい)。
その他にも、チビとかブスといった、身体的な特徴について侮蔑するような言葉は、未だに使われ続けているが、この先どうなるかは分からない。知能には、実は"天然"という非常に便利な言葉が発明されていて、それはバカより柔らかい表現ではあるものの、そこに問題がないわけではない。
僕が、人前で話すと手足が震えると告白したとき、そうだな、「チキンだ」などと言って笑うことができるかもしれない。僕は、その人に向かって社会不安障害という病気(「極度の「アガリ症」は病気かも……社会不安障害の治療法とは」)を紹介することで、その人を加害者にすることができる。
世界から、誰かを傷つける"可能性のある"言葉や笑い、表現をなくそうという崇高な思想について、論理的に反対することは難しい。それは正しいのかもしれない。正しくっていいね、と僕が単純に言えないのは、僕が文章を書くことで、誰かを傷つけているかもしれないと恐れているからだろうか?
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