ブログ「いらけれ」

普通の顔をして生きてきた人が、普通ではなかったと知ったとき僕は、普通ではないことを知りながら普通の顔をしていたその人が、普通の人として扱われることをどう思っていたのか、そのとき何を考えていたのかということに、非常な興味を持つ。僕は、普通のときでも、普通じゃない顔をして生きているから。

USBケーブルを買ったことは既に書いたが、その後に部屋を片付けていたところ、ポスターを貼るときに使う剥がせるシールの余りや、未開封の単三電池など、なんといったらいいか、そういった「いつか必要になりそうなもの」を詰め込んでいた箱に、使っていなかったUSBケーブルが3本入っていた。あと、スマホを変えたことで壊れていないイヤホンジャックを手に入れたから、それ用に有線のイヤホンを買ったのだが、以前にメインで使っていた肩掛けカバンから、入れっぱなしにしていた筆箱とかティッシュとか折り畳み傘を全部出して、軽くして散歩用に使おうと整理していたら、読者諸君のご期待通り、有線のイヤホンが出てきた。私は、これらのことに、とてもショックを受けている。部屋にある、ダンベル代わりにしたり、本立て代わりにしたりしていた2リットルのペットボトルの水を飲んで、息をしなくなった方がいいのではないかと、真剣に考えてしまった。

「戦隊ヒーローものって、大体5対1とかだから、いじめじゃ~ん」みたいなのって、よくインターネットで見かけるけど、たしかに一理あるし、やっぱり、どんなヒーローだとしても、相手がいくら悪の大魔王だとしても、暴力をふるうのはいけません!ということで、悪の大魔王には心療内科を受診していただくことにする。
「16番の方どうぞ(プライバシーに配慮した心療内科では、名前の代わりに受付でもらう番号札の数字で呼ばれることがあるぞ☆)」
ガチャ
「よろしくお願いします」
「そちらに座ってください。えー……っと、大魔王さんですね」
「はい」
「いただいた問診票には、『世界征服がしたくてたまらない』とありますが、これは?」
「ええ。わたくし、子どものころから世界を憎んでおったんです。それで、破壊活動や人々の洗脳を行うようになったんですが、今では手下も出来まして……」
「分っかりました。うーん、まずは心を落ち着けるお薬を飲んで、状態を見ていきましょうか。ゆっくり、時間をかけて直していていきましょうねー」
……って、コントになってしまう。あるいは、前衛的を気取って滑っている映像作品みたいな。フィクションを作る僕らには、フィクションのために悪の大魔王が必要で、そしてフィクションのなかでは、やつを倒す以外の選択肢なんてないんだ。フィクションが悪の大魔王を要請し、悪の大魔王が正義としての暴力を要請する。


「平和」BUGY CRAXONE

だいじに生きておくれよベイビー
適度に生きておくれよベイビー
かならず生きておくれよベイビー
だって正義よりも平和だよね

ブログ「いらけれ」

ふとした瞬間に、すべての記憶が蘇ることがある。それまで思い出さなかったことでも、それでも頭のどこかに、どのような形か分からないがあって、それは、たった一つのきっかけさえあれば、思い出されることもあるのだ。午後3時のファミレス、その時の私たちは、何かのきっかけで学んでいた言語の話になった。

大学2年生の私は、第二外国語であるドイツ語の、特別クラスにいた。特別クラスの講義は、ドイツ人の女性講師が、ドイツ語のみで進行するという、かなり厳しいものだった。教室は、大学入学前からドイツ語を学び、すでにドイツ旅行や、ドイツ留学を経験している陽気な人間と、私のように、ペーパーテストができた陰気な人間に分かれていた。

ある日の講義終わり、クラスのなかで好きに班を組み、5分間の小さな劇を次週までに作ってくるという課題が出された。当然のように、陰気な人間が集まった。班になった4人は、皆が目を合わせることなく、「劇、どうしようか」と探りあった。その時、なかの一人が突然、「一人で台本作ってくる」と言い放った。その男は、呆気にとられている3人を残して、「それじゃ」と言って教室を出ていった。これが、Kとの出会いだ。

Kには、学内に知り合いや友人がいないようだった。また、必要ともしていなかったように思えた。だが、講義と講義の合間に、文芸誌を読んでいた私には、少し興味を持ってくれたようだ。大教室の講義で私と一緒になったKは、隣に座り、話しかけてくるようになった。私は、Kと親しくなるつもりも、じっくり話し合うつもりもなかったから、ひどく素っ気ない態度を取っていたと思う。しかしKは、私の隣に座ることをやめなかった。

その日もKは、私の隣に座った。そして、おもむろに口を開くと、この大学がいかにダメで、講義のレベルが低いかということを、熱っぽく喋り始めた。その勢いは、物静かなKの印象に反するものだった。最後にKは、私に同意を求めてきた。そう思うよね、と。

面食らった。面食らった私が、あいまいに相槌を打っているとKは、「ここにいたら腐る。だから、いつかフランスに留学する」と、真剣な面持ちで大きすぎる夢を語り、勝手に会話を終えた。終えられてしまったから、それならばなぜ、ドイツ語を勉強しているのかということについて、分からずじまいだった。

3年生になると、ドイツ語の講義はなくなり、Kと会うこともなくなった。そればかりか、大学の構内でもKの姿を見かけることはなかった。

Kがフランスに行ったのか、彼のその後については何一つ分からないが、確かに、私の中に何かを残した。残ったものが呼び起こされたから私は、この思い出を文章にして、ラジオ番組にメールで送ったが、紹介されることはなかった。だから私は、それに少し手を加えて、ここでこうして、公開したのだった。

ブログ「いらけれ」

昼間には、お友達とお茶をすることになっていた。ボンクラな僕は、日程がタイトなことを考慮すれば、昨日の夜に書いておくべきだったブログを、珍しく朝にちゃんと起きて、必死の思いで書いていた。

書けた。書けたのだが、なんだか締まらない気も、物足りない気もして、記事の最後に曲を貼るいつもの手法を使うことに決めたが、肝心の曲が決まらない。正しくないことだ、記事の着地点にするためだけに、音楽を利用するのは。正しくなさをそのままに、手当たり次第好きなバンドの曲を聞いて、「まあこれでいいや」と思えた時には、それに乗れば遅刻にならないという電車の出発まで、20分を切っていた。

髪がベタベタだったから、シャワーは浴びなければならなかった。やはり髪は、乾き切らなかった。もう時間だ、僕は走った。駅、そうだ、今日は向こうのホームの電車に乗らなければならない!
急いで階段を登った。心臓が跳ねた。息が上がって、エレベーターで降りた。電車、まだ来てなかったから。少し安心したが、それでも心臓は鼓動を続けて、電車が目的地に着く頃には、額に汗が滲んでいた。

駅で落ち合って、ファミレスに入った。朝に僕は、ブログに書くことを考えながら、冷凍のチャーハンを食べていたので、人生で初めてパンケーキを頼んで、ナイフとフォークを使って食べるのにてこずっていた。デニーズのパンケーキは、添えられたアイスがとにかく甘くて、パンケーキは、幼少期に食べたホットケーキの味を思い出させた。僕が幸せだった頃。母がホットケーキを焼いてくれなくなり、僕が食べたいと思わなくなった辺りで、白くぼやけていた世界の向こうに残酷な不幸があることを知った。それが僕の、パンケーキを食べた印象だ。そして、もう二度とパンケーキを頼むことはないだろうと思った。

創作活動をすることについて話していて、なぜするのか、なぜネットに上げるのか、どうなりたいのかと、どんどん深堀をしたことで、なぜ自分がブログを続けているのかという疑問が立ち上がり、答えに窮してしまう。始める前は、始めてさえしまえば、たちまちたくさん読まれるようになって、次々とリツイートされて、フォロアーがバンバン増えて…という未来を予想していた。今になって思えば、それがあり得ないってことぐらい、分かりそうなものだが。あり得ないって諦めている僕に、ブログを続けさせている第一は惰性の力で、第二は、やめたら二度と復活しないのではないかという恐れだ。あの頃のように、誰かに言葉が届くかもしれないって、真剣に思えるようになるだろうか。ならないならばやはりそれは、続けてきたから続けていくという反復の中に、沈むことになるだろう。


Babyshambles – Fuck Forever
※ちなみに、これが一旦候補に挙がって、結局貼らなかった曲のなかで、最も有力だったものだ。They’ll never played this on the radio!

ブログ「いらけれ」

帰りの電車のなかで、そういえばリュックに入れていたなあと、借りていた本を取り出したら、挟みこまれていた細い紙に書かれた返却期限が明日。ぼんやりと来週ぐらいかなあと思いこんでいたので、本当に危ないところだった。このところ、時間が早く過ぎる。髪を切られている間の面倒な10分と、風呂に入っている間の大好きな10分は、絶対に長さを変えられていると思う、神様に。そんなことより、『電化製品列伝』がマジで面白いので、みんな読んだ方がいいよ(絶版だから、読むまでが大変だと思うけど!)。本当にそうか、読者が疑問に思いかねないギリギリの自説を、断言していく手際がすごい。技術的に素晴らしすぎませんかと、読みながら感心することしきりだ。憧れる(そして、帰宅してすぐ延長を申し込んだ)。

それで、二日前には出来ていたはずの新しい眼鏡を取りに行った。お金も払っていたし、些細な確認だけで受け取りはつつがなく終わった。僕は、その場で新しい眼鏡を掛けて店を出たんだ。それまでと、物の見え方が大きく変わっている。眼鏡やコンタクトを使わない人には、分かってもらえないのだろう。ただ遠くの文字が見えるようになって、ただ視界がクリアになるだけではないのだ。世界の印象が、大きく変わる。流石にこちらでは、「本当に危ない」と思うような目に逢うことはなかったものの、見えすぎる世界に慣れなくて、フラフラしてしまった。

僕の家の最寄り駅、久米川というところは、少しずつの変化を、ここ数年ずっと続けている街だ。それは、肌に感じる雰囲気という文字にしにくいものもそうだが、分かりやすく、周辺の店が入れ替わっている。入れ替わるのはいい、勝手にすればいいと思っているのだが、しかし、駅近くの商店街入口の辺りが、「ドラッグストア、歯科、ドラッグストア、歯科」という狂気じみた並びになっているのは、誰か早くどうにかした方がいいと思う。「馬鹿のシムシティか」と、心のなかでツッコんでいるよ。

見えるものばかりが本当じゃないんだぜってのは、僕も知ってる。
『東京ポッド許可局』の「解散ドッキリ論」を聞いて考えた。「※工事中」でプロレスのことを書いた。感動したのは本当だが、書かなかったことがあった。それは、いわゆる"答え合わせ"までの(時間的な)距離が短くなりすぎているのではないか、ということだった。
“それ"について詳しく知りたい人にとって、いくらでも裏話が公式的に出てくる今は、天国のような時代だ。何が、どこで、どう起こって、噂のどこまでが本当で、どこからが嘘なのかということ、あまつさえその時の心境まで、当人がツイッターで教えてくれたりするわけだ。しかも、質問できちゃったりして。ただ楽しみたい者が、快楽と感動をインスタントに手に入れる世界。想像する余白はなく、当事者の話す正解が絶対視され、すぐ"答え合わせ"されてしまう世界。
これは、良いことばかりじゃないはずだ。良いことばかりじゃないんだぜって、いつも気を付けとこうな、みんな。