ブログ「いらけれ」

今日は近所を歩いた。いなげや系列のESBIというスーパーがBig-Aというスーパーに変わったことや、その近くに新しい洋食店ができたことは、東村山で有名なグルメブログを読む前から知っていた。この前お酒を飲んだ友人と、最近、東村山のどこどこが何々になったということが話題になったとき、彼はBig-Aができたということを僕に話し、そのグルメブログを書いている人のツイッターで知ったと言っていたが、ちょうどそのツイートが流れてくる1時間ほど前に、偶然、僕は同じ道を歩いていて、つぶやきが流れてきてビックリしていたのだった。

それで僕は、そのグルメブログでタイコーという100円ショップが閉店することを知った。22年もの間、そこでお店を開いていたそうだ。僕は、数日前にジュースとポテトチップスをそこで買った。前を通ると、本当に張り紙がしてあった。

昨日、東村山のイトーヨーカドーに行ったのは、髪を切るためだった。僕を驚かせたのは、テナントとして入っていた新星堂が、閉店していたことだった。お客さんの姿はいつも少なかったから、なくならないことの方が不思議だったし、僕もそこでCDやDVDを買うことを何年もしていなかったけれど、少しショックだった。CDなんてもう、インターネットで買えばいいだけ、いや、CDなんて買わずに動画サイトや配信で聞けばいいだけ、なのだろうけれど。

唐突に思い出話をする。『熱血!スペシャ中学』という番組が好きで、よく見ていた。後に(さまざまな仕方で)有名になる人が、たくさん出ていた(知りたい人は、検索してみてほしい。僕が直接、名前を出さなかった理由も分かるだろう)。僕が初めて買ったCDは、スネオヘアーの『a watercolor』というアルバムで、それは彼も番組の出演者の一人で、番組の途中に曲がよくかかっていて、好きになったからだが、今思い出してみれば、あれ自分で買ってない。姉が買ってきてくれたものだ。
姉は、僕にアルバムを手渡して「一緒に聞こうよ」って言った。プレステ(初代!)に入れて再生して、二人で聞いた。始めの方はシングルカットされた曲が並んでいたのだが、途中から知らない曲ばかりになった。姉が「飛ばしてよ」と言って、僕が曲をスキップしたんだ。それでモヤモヤして、姉が部屋から出ていった後、一人で飛ばした曲を聞いたあの経験が、今の音楽に対する僕の姿勢を形作っている気がする。

あの新星堂で僕が買ったのは、これもバンドメンバーの一人が出演者だったNANANINEの『CAKE;LAKE』というアルバムだ。僕は小6だったと思うけれど、なんと、母親とそこにいる!それで、母に会計を頼んでいる!おずおずとレジに歩いていった母は、店員のお姉さんに「ウチの子変わってるでしょ? 変なCD買って……」みたいなことを言って、それは母の照れ隠しだったのかもしれず、今なら100パー自分が悪いことも分かるのだが、嫌な気持ちになった。

12歳にもなって一人で買い物ができていなかったという、僕の、人間としての根源的なヤバさをこのように曝け出したところで、何になるんだろう。どうにも分からなくなったから、今日はここで、終わりにしよう。

ブログ「いらけれ」

「ヤクルト石井琢朗コーチの珍練習再び。ボールではなくバットが飛んだ」
このバット投げ練習が新聞やネットの記事になる時はいつも、この投げられているバットは折れて使い物にならなくなったもので、それを再利用しているのだと説明されていた。新品のバットを使っていると、誰から文句を付けられるか分からないと思っているからだろう。
でもさ、野球の試合では、ボールが根元に当たって、バットが折れるなんてざらにあることでしょう?試合で折るのは良くて、試合で活躍するための練習で折るのはダメ、ということなのだろうか。それに、お金を出して買ったものなのだから、煮るなり焼くなり、投げるなり勝手にすればいいと思うのだけど。……と、ここまで読んで説得されそうになった人も、これが炊き立てのご飯を投げる練習だったら、顔をしかめると思う。松本人志が、糸井重里との対談で、似たようなことを言っていて(「帰ってきた松本人志まじ頭。」)、これを読んだ高校生の僕が、それなりに納得して、仲の良かった先生にその話をしたら、「お前は世の中のことが何も分かってない」って諭されて、その時にはなんでって思ったけど、今では先生の言いたかったことも分かる。
炊き立てのご飯を食べずにぶちまけることより、カロリーの摂り過ぎで太っている僕のような人間が、もうお腹いっぱいなのに、あとで排泄するだけなのに、無理して食べることを良しとするような心性、それはお供え物のおはぎを食べられなかったり、お地蔵様にいたずらできなかったりするような心のあり方というのがあって、それを理解することの方が、「ご飯を、食べるのとは別の使い方をしたとしても、お金を出して買ったんだからいいでしょ?」というような考え方を持つことよりも、よっぽど大事なんじゃないかと思う。

電線。電線に巻かれた青いカバー。青い電線が空に溶けている。溶けた電線に止まった鳥は、羽ばたくことなく空に留まっていた。3月9日にも歌われていた白い月の下で生きていた。太陽光でさえも、そのエネルギーを変換して使おうとする人間。ソーラーパネル畑の日陰で休む猫が、鋭い目つきでこちらを見ていた。傍らには、水の入った青い皿が、地面の青いシートに溶けていた。僕は歩いて、その場を離れた。家に帰らなければならなかった。生活を続けていくのだと思った。そのために、やらなければならないことが頭を擡げるとき、この曲に恥じないようにしたいと思った。

LIBRO【MV】とめない歩み

家に着く頃には
全てひっくり返したい
眠りにつく頃には
何にも考えない

ブログ「いらけれ」

朝起きて、一番最初にしたことは、auのサポートに電話をかけることだった。詳しく説明すると長くなるが、そのことを恐れずに書いていくのならば、「My au」というアプリに、「メッセージングでご相談」というのがあって、これは、LINEのような画面から、サポートに質問や相談ができるというもので、これを使って、「登録をしたはずなのに、『My au』のエンタメという欄にあるApple musicが、契約中と表示されていないのですが」と、Apple musicが使えていないのはauのせいなのでは?という僕の推理を確かめるために尋ねたら、「現在の回線だと、利用が確認できないので、窓口に電話して」という返事が来ていたのだ。一連のブログを読んでいる人ならば、お分かりだと思うが、やっぱりauに問題があったようだ。ねー。それで、日中とか夕方、夜に電話をかけたものの、とにかくオペレーターにつながらない。「つなぐまで20分以上かかります」とか自動音声が言っていたので、朝一にかけることにした。
寝惚け眼で電話したら、すぐにつながった。「Apple musicの契約を確認したいんですけど……」というこちらの発言を遮る勢いで、「お確かめします」と言って、保留の時間が5分ぐらいあった。再度つながると、そのオペレーターは「登録できていなかったので、今登録した」と言った。そして、その日その時から使えるようになった。今までのやり取りや、かかった時間を思い出して、気が遠くなった。電話口の僕は、怒ることも責めることできたが、グッと我慢して言葉を飲み込んだ。ただ、次に機種変更するときには、会社を変えることも検討しようと心に決めた。
その前日には、ネットで注文したVooidのアルバム『Vooid』が、入荷できたとメールが来ていた。悩んでいたこと、懸念だったことは、これで解消された。清々しい気持ちで、一日がスタートした。でも、向こうが初めからちゃんとしてくれていれば(ちゃんと在庫を確認していれば/ちゃんと登録していれば)、悩む必要なんてなかったし、マイナスだったことが、ゼロになっただけだ。このことに気が付いたので、清々しさはどこかへ行った。

“丁寧な暮らし"ったって僕は、それが桜なのか、ウグイスなのかも分からない。メジロなのかもしれない。それでも、この鳥がくちばしを使って落とした花を、お母さんと女の子が拾っているという日常の風景が愛おしく感じられたのだから、それだけで素晴らしいことなのだろう。


J.LAMOTTA すずめ – Turning

洪申豪のファーストアルバム『Light Coral』がリイシューされて、日本でも販売されるらしい。僕が、二万四千円出してアマゾンで買ったら、「未開封」と書かれていたのに、ケースが壊れていたあのアルバムがである。届いて、スマートフォンに入れて、散歩しながら聞いて、夕暮れ時の街で一人涙したあのド名盤がである。
また、J.LAMOTTA すずめの新しいアルバムも発売されるらしい。MVが公開されているので、新曲も聞いたが、相変わらず素晴らしかった。どちらのCDも「誰が買うのか」と問われるような、マイナーなものかもしれない。しかし、だからこそ「僕が買うのだ」と、強く言い返したいところだ。

ブログ「いらけれ」

「※筆者頭痛のため、休載いたします」という訳にはいかないのだろうか。いかないのだろうなあ、プロたるもの。後藤さんはプロじゃないっつーの。そういえばこの前、ブロガーって肩書きの人を見て、ブロガーってどうやったらなれるんだろうって思った。何の専門性も無い人がブロガーになったところで、結局は、物を売ったり広告したりすることで収益を上げるんだろうけど、それならば、僕はいいやとも思った。

ある時から諸相が変わって、「無思想様」と名付けた人が誰なのか、今ではもう知る人はいない。僕は大学生だったが、その呼び名がピッタリだと思っていた。教養科目の講義は、どれも僕を楽しませたが、それが役に立つことはなかった。季節は春だ。地球は二つあった。
僕の見知らぬ友人が死んだのは、とても低い確率を引いたからだ。平均寿命は、その年齢になるまで皆が生きられるという指標ではない、当たり前だが。石油王の息子で、思慮深い人間だった。「無思想様」に対して、敬虔な祈りを捧げることを欠かさなかったが、でも死んだと僕が書くから、僕はその男を殺すことができる。
つまり、創造主の手の中にあり、創造主の意志通りに物事が動かされるのであって、決定論的にすべてが決まっているのだと考えるのは自由だし、それがその通りだとしても、決して思想があるとは限らないということだ。創造主だって、理由なく登場人物を殺すっつーの。
貧困を、飢餓を、非業の死を、昼食のメニューを選ぶときのように、その日の気分で選択して、キャラクターに与えた小説家。そんな惨たらしい書物だって、紙魚とってはご馳走だったようだ。動き回っていたそれの上に僕が親指を被せたとき、殺すつもりがなかったなんて言えない。小さな悲鳴を、聞いた気がした。

このところずっと、書くことが無いって悩みながら、トイレに長居したり、湯船から出なかったり、寝たりしていた。見聞を広げなければならないでしょうか、それはめんどくさいなあと思うので、僕は楽器だと思うことにした。ただ脳を、楽器を鳴らすように使い、楽器が鳴ったときのように出力する。音は、ある一曲を構成するために鳴らされるのではない。鳴らされた音が、ある一曲を構成するのだ。鳴らし続けた音が、独りでにメロディとなるまで。


Sufjan Stevens, “Fourth Of July" (Official Audio)

The evil it spread like a fever ahead
It was night when you died, my firefly