2019年4月「デモクラシーCafe@東村山」(中篇)

ブログ「いらけれ」

はっきりいって、「友だち=○○」の○○に何を入れても(気が合う、そばにいて楽しい、価値観を共有できるetc.)、「○○=友だち」だとなぜ言えるのか(なぜ気が合うのか、なぜ楽しいのか、なぜ同じ価値観なのか)については、「そうだからそうだ」としか言えないものであり、掘っても掘っても答えが出てこないものだ。つまり友だちとは、「友だち=友だち」という同語反復のなかにしか生まれない関係なのではないか。

私たちは、友だちと友だちになる。まったくの偶然に、あまりにも生得的に。これは、今は友だちがいないという人には、救いになるかもしれない。まだ出会っていないだけなのかもしれない。そして、この奇跡(友だちができること)は確かに、誰かを救うかもしれない。しかし、あらゆる薬が毒にもなるように、友だちという関係は政治に利用されるし(私が、体育の時間にされがちな「友だちとペアを組んで」という呼びかけにトラウマがないのは、一つは不登校の時期が長かったという理由だが、もう一つは、クラス内政治に友だちという関係を利用していたからだろう。唐突な告白になるが、私は、学年が上がり、親友と周りからみなされている関係の人間と、別々のクラスになってしまう度に、新たな「親友」を作っていた。もちろん「親友」たちのことは嫌いではなかったが、彼らのことが好きだったか、今でも彼らと会いたいかと問われれば、口ごもってしまう)、「お前、俺と友だちだろ。だから、あいつを仲間外れにしろ」というように、悪用もされる。

このように、友だちという言葉、関係、概念について疑義を抱いている私が、対話のかき回し役になった部分があったのは(あ、そういえば「デモクラシーカフェ」の話でしたね!) 、始まる前から決まっていたことなのかもしれない。私にとって友だちとは(やっと後藤さんの友だち定義が聞けるんですね!)、クラスなどの狭い世界、あるいは日本というような大きな社会、もしくは広大な世界のなかで、二者以上の間に立ち現れていると、誰かが指さす(その誰かには、指さされる当事者がなることもある。「私たちは、友だちだよね」)関係のことであり、そのように指さされるのは、当事者たちにとっては非-孤立を確認するためかもしれないし、他者にとっては目の前の関係を型にはめて理解するためかもしれないが、とにかく方便でしかないのだと、そう考えているのだ。

私は、誰かから友だちと呼ばれうる、今の私と関係のある誰かよりも、例えば、数年会っていない高校時代の先生の方に親密さを感じていたり、好きな小説の作者や、あるいは小説それ自体、ラジオ番組、音楽、道ばたの石、枝、三月の水、桜吹雪の方を愛していたりするわけだが、これらは、さまざまな理由で一般的には友だちと呼ばれない(「音楽/映画/文学だけが僕の友だちだった」というようなことが言われがちなのは、当たり前のことだが、それらは普通、友だちとは呼ばれないものだから、あえて言葉にされるのだ)。

※この文章は、さらに広がっていくので、明日に続く。

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤