ブログ「いらけれ」

心身の低空飛行によってイマジネーションが欠乏した脳からは出てこない言葉が、天空から降ってくるのを待っていたら夜が明け、覚めた目から出る涙が止まらない。ついでに言えば鼻水も止まらない。この壊れた蛇口で部屋はびしょびしょになって、オフィーリアのような格好で横たわっていた私は、とても寒い思いをしたぞ。
なぜ花粉症の薬を飲み忘れてしまうのだろう。私の住むタワーマンション15階の床から天井まである窓ガラスからは、東京が一望できるというつもりになって、遠くを見つめながら考えていた。回らない頭では、あとで苦しむのは自分なのだから、飲み忘れ対策をすればいいのにしない自分が理解できなかった。「不思議だね、ははは」と笑い合っている場合ではない。そもそも笑い合う相手などいない。明日からは気を付けるぞ。

そういう事情ですから、あったことを書くわけですね。事実は優しい、工夫がいらないから。

auのポイントを、別のauのポイントにすると倍になるという、こう書いても伝わらないだろう事情によって、増やしたポイントの期限が迫っているから本を買おう。そこで、エリザベス・ブレイク『最小の結婚』を注文した。ポイントは2000円分ぐらいなのに、4620円。分厚い専門書だから仕方がないとはいえ、私は何になろうとしているのだろうか。在野の研究者?研究って何を?頼んだ翌々日には届き、しかし家にいなかったので不在票がポストに入っていて、それを見た私は何が宅配されたのか分からず、一瞬悩んでしまった。この社会は、非常にスピーディーである。
この本を出版している白澤社を初めて知ったから、検索してブログをチェックしてみたら、新刊が『新敬語「マジヤバイっす」: 社会言語学の視点から』というタイトルで、とても面白そうだった。あと、サンキュータツオ氏に響きそうな書籍だと思った。しかし私は、次に山本貴光、吉川浩満『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。: 古代ローマの大賢人の教え』を買わなければならないのに、金持ちではなかった。
金持ちではないから、JRE POINTに登録しよう。ご存じ?JR東日本の共通ポイント。在来線に乗るとポイントが貯まるという。貯めない手はないだろうと思ってしまう。Suicaを持っていない私は、まずモバイルSuicaの登録にチャレンジするが、とにかくステップが多くて手順も分かりづらかったから、登録してほしくないのかと思った。1時間ぐらいかかった。

毎日は、成功と失敗の混合物だった。正解と間違いが肩を組んでいた。それは楽しいでも苦しいでもなくて、良くも悪くも進んでいくものだった。明日があれば、また何かが起きるだろう。とんでもない不幸が待っているとしても、死ななければ幸福だと言いたい。

ブログ「いらけれ」

かーきたいことがなーくなっちゃったなあ。やっぱりこう、現実が意外な動きをしているからかな。口を濁しているそれは、良いことなんだけど具体的には書けないやつで、聞きたければ私の友人になるしかないね。この現実よりも、面白いフィクションなんてあるだろうか。熱心に覚えたドイツ語は、どこへ行ったのだろうか。又貸しされたメタルギアソリッドは、この世のどこかにあるだろう。

用事があって銀座の街を歩いていた私だったが、面白いものを見つけることも何かを思いつくこともなかったから、調子の悪さを自覚した。花粉症が、脳の活動を低下させているのだろうか。それ以上に、苛立ちが悪影響を及ぼしていそうだから、慌ててニュースを消したら黒い画面に、醜さが映っている。鏡なんてなくなってしまえばいい、と思う。顔が苦手だ。顔なんてなくなってしまえばいい、と思う。"おそれ"の未来には、誰もが顔を隠し生きる。そうなるだろう。触れ合いはリスクであるという当たり前かつ愚かな結論で、すべてが個室になる。それは自室の延長で、状況が閉じた部屋に引きこもる。そういう間抜けが人間らしさだから、それも良いだろう。

悲観も楽観も同じぐらいしている、上手く言えないけど灰色の、コンクリか何かが縦横に重ねられた柵がずっと続いている、その向こうは斜面で高い所に線路があって、それに沿って伸びる道路を歩いていた。風が吹いたら斜面の雑草が揺れて、空の低い所を通過した飛行機が大きな音を立てて、遊ぶ小学生でいっぱいだ。「ぺんぎん」と書かれた古びた看板と、緑色の日よけの下を窺うと、ガラス戸の奥にはたくさんの駄菓子があり、3人の男の子が蛍光色の何かを食べている。店の外にはガチャガチャがあり、その内の一つにTWICEメンバーの顔が並んでいる。こんなのあるんだ、知らなかった、欲しいという気持ちに、小学生に見られたくないが勝ったから買わなかったが、こういうリアリティのなかで子どもたちが生きているということを、大馬鹿者共は知らないのだ。

踏みつけられたから知った気持ちの死角に、踏みつけたから知ることのできなかった気持ちがあるとして、とにかくまあ、踏みつけられてきた私だからできることを見つけたら、それが良いと思えなかった。痛みのない人生を歩みたかったし、痛みの記憶を活かせる場面なんて最悪だ、そこで誰かが踏みつけられている。私が要らない世界を誰よりも望んでいるのが私で、それはぞっとする、あるいはぞっとしない発見だった。

ブログ「いらけれ」

これこそ"コントの基本形"というような、トラディショナルなスタイルの楽しい小芝居は当然コントなのだが、現代においてそうしたコントを見かける機会が少ないのは、個性が求められる時代に他者との差別化を図るのならば、コントらしくない何かをコントの中に導入しなければならないからだろうし、新しいアイディアが入ってないものには需要がないからだろう。その意味において、どうやらコントを理解していないらしき者(兎)たちによる、話がズレていったりツッコミが過剰だったりする小芝居は、まさしく若手芸人たちが作るコントのような気がしないでもなかった。

28歳にもなって何を今更という感じだが、人間というものは、それぞれに世界の見方が違うんだなあと思う。特に、演芸の見巧者の感想には、はっとさせられることが多い。私はどうしても、映画を観ても小説を読んでも、まずは構造に意識が行ってしまう。しかし芸能に詳しく、そして鋭い批評眼を持つ人は、演者の姿形や身体、振る舞いに注目し、自分の目に見えたものから考えを初めているように感じる。そうした細やかさが私にはない、そして、舞台上にあるものと私が交わったところに生まれているはずの"印象"を脳内に保ち、言葉を使って出力することができない。
もちろん特性は悪いものではないし、すべてをカバーできる人間はいないのだから、このような私の生きる道もあるのかもしれない。しかし、足りない部分ばかり気になってしまうというのが、人間というものだろう。

笑うことを「顔が綻ぶ」と言うけれど、笑いは綻びなのかもしれないと思う時、しかし、ただ壊れていればいいという訳でもないらしい、というあたりが私の、関心の中心である。「綻びる」を辞書(デジタル大辞泉)で調べると、「縫い目などがほどけること」が第一の意味として出てくるわけだが、縫い目がほどけるように顔がほどけてしまうような出来事は、確かに失敗や間違いが生み出すことが多いものの、しかし、むしろ顔を強張らせてしまうような失敗、間違いもあり、どこかに分岐点があるはずで、それを見出したいと思う。

なんというかこう、自分の厄介さというか、私は厄介な客なのだろうな。変なことばかり考えて、しかし、客席で難しい顔をしているタイプの人間ではないけれど。普通に笑っているけれど。気が付いたが私は、「○○とは何か」の空白に、いくつもの言葉が入れられるような、そして、それを考えたくなってしまうようなものを面白いと感じるらしい。ふーん、ならそういう文章を書くか、と思った。思ったところで書けなかった。

ブログ「いらけれ」

支度が済んだら外へ出よう。駅のホームに電車が到着する。通りすぎていく車窓に、人影はまばらだ。私はそこに乗り込み、座った。「男らしさの終焉」を読んでいるうちに、いくつかの駅に停まったのだろう、ふと本から目を離し車内を見回すと、いつの間にか6人掛けの長い座席が8割方埋まっている。そして、ほとんどの人がマスクをしている。その白には威圧感があり、少し緊張してまうが、かく言う私もマスクをしている。花粉症だから、と言い訳したくなるけれど、病への恐れがあるのも事実だ。私を見る誰かにも、この緊張を強いているのかもしれない。

演劇に限らず、落語や小規模な音楽ライブといった舞台を見る時はいつも、始まってから少しの間、その世界に入り込んでしまうまで、とても緊張する。気分が悪くなったり、倒れたりしたらどうしようと、それは他のお客さんに迷惑をかけたくないというのもあるし、それ以上に、映画との比較で考えれば、私の振る舞いが舞台上に影響を与え、ステージを台無しにしてしまうのではないかという恐怖があるのだろう。観客、向いてないのかな。

「コントとは何か?」というコントを見ながら、私はさまざまなことを考えていた。「とは何か?」という問題は、とりわけ表現の分野において、大きなテーマになっていると思われる。自分の話をするのは恥ずかしいけれど、小学生の頃に詩を書きましょうという授業があって、書けなかった私はべしゃべしゃに泣いた。まず、詩がどういうものなのか聞いていない。聞いても、よく分からない答えしか返ってこない。だから書けないのに、クラスメイトはペンを動かしている。そのプレッシャーに耐えられなかった。
詩とは何か、多くの人が分かっていないのだろうし、そもそも、分かるものなのかも分からない。しかし多くの人は、詩という言葉に付着しているぼんやりとしたイメージで、分かった"つもり"になって、満足しているのではないか。その当たり前に、どうしても納得できない。
多くの詩と呼ばれているものを読んで、それを分類し、体系化することはできるだろう。だが、そのような分析の末に、詩らしく書かれた詩は、詩なのだろうか。それは詩のようで詩ではない、詩もどきなのではないか(その先には、なぜ詩もどきではいけないのかといった疑問も出てくるわけだが)。真面目に考えれば考えるほど、表現者は原理原則に向かわざるを得なくなる。詩を定義できなければ、詩が書けないからだ。
しかし、これは当然のことだが、それ(詩、コント、小説、演劇……)を定義することはできない。定義できたと思っても、その定義をすり抜けたり、拡張したりするそれが、必ず出現するからだ。あらゆるジャンルは、こうして揺さぶられながら進化を続けているのである。