捨象#2
支度が済んだら外へ出よう。駅のホームに電車が到着する。通りすぎていく車窓に、人影はまばらだ。私はそこに乗り込み、座った。「男らしさの終焉」を読んでいるうちに、いくつかの駅に停まったのだろう、ふと本から目を離し車内を見回すと、いつの間にか6人掛けの長い座席が8割方埋まっている。そして、ほとんどの人がマスクをしている。その白には威圧感があり、少し緊張してまうが、かく言う私もマスクをしている。花粉症だから、と言い訳したくなるけれど、病への恐れがあるのも事実だ。私を見る誰かにも、この緊張を強いているのかもしれない。
演劇に限らず、落語や小規模な音楽ライブといった舞台を見る時はいつも、始まってから少しの間、その世界に入り込んでしまうまで、とても緊張する。気分が悪くなったり、倒れたりしたらどうしようと、それは他のお客さんに迷惑をかけたくないというのもあるし、それ以上に、映画との比較で考えれば、私の振る舞いが舞台上に影響を与え、ステージを台無しにしてしまうのではないかという恐怖があるのだろう。観客、向いてないのかな。
「コントとは何か?」というコントを見ながら、私はさまざまなことを考えていた。「とは何か?」という問題は、とりわけ表現の分野において、大きなテーマになっていると思われる。自分の話をするのは恥ずかしいけれど、小学生の頃に詩を書きましょうという授業があって、書けなかった私はべしゃべしゃに泣いた。まず、詩がどういうものなのか聞いていない。聞いても、よく分からない答えしか返ってこない。だから書けないのに、クラスメイトはペンを動かしている。そのプレッシャーに耐えられなかった。
詩とは何か、多くの人が分かっていないのだろうし、そもそも、分かるものなのかも分からない。しかし多くの人は、詩という言葉に付着しているぼんやりとしたイメージで、分かった"つもり"になって、満足しているのではないか。その当たり前に、どうしても納得できない。
多くの詩と呼ばれているものを読んで、それを分類し、体系化することはできるだろう。だが、そのような分析の末に、詩らしく書かれた詩は、詩なのだろうか。それは詩のようで詩ではない、詩もどきなのではないか(その先には、なぜ詩もどきではいけないのかといった疑問も出てくるわけだが)。真面目に考えれば考えるほど、表現者は原理原則に向かわざるを得なくなる。詩を定義できなければ、詩が書けないからだ。
しかし、これは当然のことだが、それ(詩、コント、小説、演劇……)を定義することはできない。定義できたと思っても、その定義をすり抜けたり、拡張したりするそれが、必ず出現するからだ。あらゆるジャンルは、こうして揺さぶられながら進化を続けているのである。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません