捨象#3
これこそ"コントの基本形"というような、トラディショナルなスタイルの楽しい小芝居は当然コントなのだが、現代においてそうしたコントを見かける機会が少ないのは、個性が求められる時代に他者との差別化を図るのならば、コントらしくない何かをコントの中に導入しなければならないからだろうし、新しいアイディアが入ってないものには需要がないからだろう。その意味において、どうやらコントを理解していないらしき者(兎)たちによる、話がズレていったりツッコミが過剰だったりする小芝居は、まさしく若手芸人たちが作るコントのような気がしないでもなかった。
28歳にもなって何を今更という感じだが、人間というものは、それぞれに世界の見方が違うんだなあと思う。特に、演芸の見巧者の感想には、はっとさせられることが多い。私はどうしても、映画を観ても小説を読んでも、まずは構造に意識が行ってしまう。しかし芸能に詳しく、そして鋭い批評眼を持つ人は、演者の姿形や身体、振る舞いに注目し、自分の目に見えたものから考えを初めているように感じる。そうした細やかさが私にはない、そして、舞台上にあるものと私が交わったところに生まれているはずの"印象"を脳内に保ち、言葉を使って出力することができない。
もちろん特性は悪いものではないし、すべてをカバーできる人間はいないのだから、このような私の生きる道もあるのかもしれない。しかし、足りない部分ばかり気になってしまうというのが、人間というものだろう。
笑うことを「顔が綻ぶ」と言うけれど、笑いは綻びなのかもしれないと思う時、しかし、ただ壊れていればいいという訳でもないらしい、というあたりが私の、関心の中心である。「綻びる」を辞書(デジタル大辞泉)で調べると、「縫い目などがほどけること」が第一の意味として出てくるわけだが、縫い目がほどけるように顔がほどけてしまうような出来事は、確かに失敗や間違いが生み出すことが多いものの、しかし、むしろ顔を強張らせてしまうような失敗、間違いもあり、どこかに分岐点があるはずで、それを見出したいと思う。
なんというかこう、自分の厄介さというか、私は厄介な客なのだろうな。変なことばかり考えて、しかし、客席で難しい顔をしているタイプの人間ではないけれど。普通に笑っているけれど。気が付いたが私は、「○○とは何か」の空白に、いくつもの言葉が入れられるような、そして、それを考えたくなってしまうようなものを面白いと感じるらしい。ふーん、ならそういう文章を書くか、と思った。思ったところで書けなかった。
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