ブログ「いらけれ」

先週の日曜日に、「デモクラシーCafe@東村山」に参加してきました。とても楽しかったので、私のように若くて(「26歳が若いのか問題」は、別途ありますが)、哲学カフェや対話カフェに参加してみたいけど迷っている、という方の参考になればと、少し文章を書いてみますね。

今月のテーマは「道徳は教えることができるの?」。そもそもデモクラシーカフェとはなんぞやということや、今月の詳しい内容については会のブログ(写っていますね、恥ずかしい><)に任せるとして、僕の持ち帰ったものを。

「道徳」ということを考えるとき、それは、いつどこでも変わらない法則のようなものなのか、時代や場所によって変わるものなのかというのが問題になるようです。例えば、現在では誰かを奴隷として扱うことは間違いだと思われていますが、以前はそうではなかった。だから、「道徳」は変わりうるものであり、相対的なものとして捉えることもできるし、いや、その当時の考えが、今では誤りであると分かるように、人類は、漸進的に普遍的な道徳に近づいている、だから、普遍的な道徳のイデア?みたいなものが措定できると考えることもできる。

まあ、これはその人の立場とまではいかないけれども、考え方の癖のようなものであって、違いがあっていいし、その違いを理解さえすればいい思います。正解のないことですから。そして話は、小学校などで「道徳」が正式な教科になることについて、どう考えるべきかに移っていくわけですが……ここでの対話が難儀でした。

もちろん僕も、この施策には批判的ですし、容易に国家(あるいは、現政権とそれを支援する人々)に利用されかねないことにも同意します。都合のいい人間をつくるために、「道徳」が利用されるのではないかという危惧も当然でしょう。また、理想的な人間像を勝手に作り、それを押し付けるべきではないという意見も確かです。

しかし、それならばこそ問題は、この施策が実施されようとしていること、つまり、これを良いと思い、これを良いと思っている政治家を支持する人が多いということなのではないでしょうか。「問題だよね、ダメだよね」と言って、"こちら側"で頷き合っていては、普通に「道徳」が教科化して終わりです。どうしても話が、いや話されている場の空気が、そういうものになってしまっている気がして、そこまで静かに聞いていた僕が、突然議論をかき回したわけですが(あの強引なやり方が正しかったのかは、今でも悩むところです)。

現実を変えるためにこそ、向こう側にいる人との回路を開かなければならないし、その方法を考えるためにこそ、この対話というものが有用なのではないかと思います。会が終わった後に、生活の中で誰かと話し合い、何か大切なものを伝えるときが、ここで対話した経験を活かすときなのでしょう。考えたり、聞いたり、話したりすることが、とても大変なことであることを理解し、会話の経験を持ち帰ることが大切なのかなと、その場にいながら考えていました。

また、これは余談ですが、今のやり方を批判し、例えば、こうした道徳教育を疑うような人間になるように育てるべきだ、というとき、そこには「道徳教育を疑うような人間」が、押し付けられる理想の人間像として、置かれてしまうのではないか…などと、考えてしまいました。難しいですね。

とにかく、こんなことを真面目に話しあう場があり、真剣に語り合っている人々に、静かにとても感動していました。お開きになった後にまで、僕の疑問に答えてくれた方もいて、本当にありがたかったですし、泣くほど嬉しかったです。実はみんな、いろんなことを知っていて、いろんなことを考えているんだけど、言う場がないんですよね。とくに、僕ぐらいの年代になると、ひとつもシリアスに語り合うことがない。だから、自分と同じようにシリアスに、現実社会に向き合って、物事を考えている人の存在を、知ったこと自体が喜びでした。

会の運営や、話し合いのファシリテーションは、非常に大変だと思います。とくに話し合いの場においては、どうしても小さな上下関係ができてしまうものです。年上/年下、男性/女性などで、前者が教え、後者が聞くという形になってしまいがちです。これは、現在の社会がそうなっているからで、しょうがないところもあります(もちろん、現実を変えていかなければならないでしょう)。

その条件の中で、対話を成立させるために、運営の方々は尽力されています(本当にお疲れ様です!)。なので、誰でも参加できると思いますし、若い方や女性にもっと加わってもらいたいです。午後のひと時を"対話"で、過ごしてみてはいかがでしょうか。迷っている方には、勇気を出してほしい!(やっと冒頭の話に戻ってきた)。たぶん、僕もいるし…って、これはプラス情報じゃないですか笑。

ブログ「いらけれ」

内側から湧き出る何かとか、もうとっくになくなってますからね。それに、ネヴィルことPACが、ドラゴンゲートに復帰したことも最近知ったくらいの情報弱者だし。何も知らねーな、俺。だからといって、ドラフトでスワローズがクジを外し続けていることについて、書く気にもなれないしなあ。どうなっているんですか、野球の神様!(あれ、訴え出るべきはクジ引きの神様か?)
もう人生が毎日辛くて、起きたことを書くと辛くなってしまうよ。あるいは、毎日「辛い」と書くしかなくなってしまうよ。人生を好転させるためにこそ、僕はサイトのドメインと、サーバーの契約を更新することに決めるけれど、それで、どうなるっていうんだい?結局は、インターネットの海に、マイクロプラスチックのようなゴミを出しているのと変わらない。

とにかく今ネットで流行るものはつまらないと思っているし、世界がどんどんつまらなくなっていると思う。多くの人が、実はそう思っているのではないだろうか。だって、ツイッターに流れてくるあんなの、面白いと思っているの?
おそらく、いま価値を持っているもの、人気になっている物/者は、これからのどこかのタイミングで、無価値になるだろう。だから僕は、地力をつけるように、コツコツと地道に、ものを書いたり、話したりしていくしかないのだ。今はいつか終わる。盛者必衰。
いずれ来る次の時のために、孤島のような場所を確保した。沈没した土地から避難してくる者たちを救うために。

あらゆる可能性が、古い角質のように固まっている。毎日を続けていくように、混雑した道を歩いて、曲がった角に立つ男が、手に持つタブレットでやっている野球ゲームだ。男は、何かを一言二言つぶやいたあとに恐ろしい相貌になって、勢いよく道に投げつけて、それが跳ね返るまでの数秒間。スローモーションのようになって、蜘蛛の子を散らすように誰もいなくなって、そこには男と、それを見る男だけが残った。これは長い、長い物語の始まり。ある人生の終わり。


Tristan Prettyman – My Oh My (Official Video)

「InterFM897 Music Mix」で流れてきて、自分が好きというより、友人が好きそうだなと思った。それで、そういう感情はいいなと思った。プレゼントを贈るという行為の本質は、誰かのことを思う、考える時間にあるのではないだろうか。あの人がこれを好きそうだとか、だからあげたいだとか、そういう感情の中で生きていたい。

ブログ「いらけれ」

意志することがなければ、人間だって、ただの石と変わらない。

来月の頭あたりに、珍しく、それもどうしてか分からないわけですが、なんとなく流れで、旅行する予定が入っていまして、なので、このブログをお休みするかもしれません、数日間くらい。僕が頑張ることができれば、もしかしたら、お休みしないかもしれません。旅行先は群馬で、もしかしたら皆さんにも、お土産話の一つもできるかもしれません。しないかもしれません。

「みんなコピペライターに対して悪口を言うけれども、コピペライターだって人なんですよ?コピペライターだって傷んですよ!コピペライターの気持ちも考えてください。」というのは冗談で、僕も、僕も含めてなくなって、いなくなってしまえばいいと思ったし、だから辞めた。

仰ぎ見るテレビの中のプロレスラーたちにも、それぞれのリアルライフがあるということを知ったのは、いつのことだっただろうか。幼い僕にとっては、そこで行われていることのすべてがリアルだったし、悪者は悪者で、ヒーローはヒーローだった。その頃とても幸せで、とても熱中していたことを覚えている。
でも、年を取って、純粋さなんてなくして、裏側も知って、それでも彼らを尊敬している今も、そんなに悪くないと思っているよ。大人になったということだろう。でも、大人になっても僕は、まだ子どもでもあるんだよ。だからさロマン、君がヒーローとして戻ってくることを信じているよ。

午前2時の道は真っ暗だった。この先に海があるという情報と、頼りないカーナビだけで、レンタカーは速度を保つ。運転免許証のない僕は、車内の雰囲気作りを役割として引き受けた。初めに話していた話は、すぐにどこかにいってしまった。ただ音として、Bluetoothでipodとつながったスピーカーから流れる曲。イントロ当てクイズが始まった。数時間それだけやっていた。正解数を競うわけでもないし、正解したからといって何があるわけではない。ただ楽しさは充満して僕は、『プレーンソング』のラストを思い出した。何も話していないように僕たちは話していたし、誰が話したことも、誰が話してもよかった。ただ会話があって、空間があった。

頑張って忘れたいことも、でも、忘れようと頑張ることはできないし、忘れようとするときには思い出してしまっているわけだから、記憶は、努力して消せるものではなくて、忘れるべきことでさえも、頭に残り続けてしまう人間というのは、面白い存在だなと思った。

ブログ「いらけれ」

最近は仕事のことばかり考えてしまっている。今の職場をいつ辞めて、辞めるなら何をするというのか、そんなことばかり。人としてダメだから堪え性がないので、それにこのままでは未来が見えないので、新天地を探したい。ここにいたことは、文無しからの緊急避難にはなったわけで、それだけでもよしとしたいところだ。懐に余裕のあるうちに、いろんな企業に応募して、ステップアップ先を探そう。どこがいいかなー。
追記:とりあえず新しいところに応募してみた。会社名だけじゃなく、職種とかも書かないでおくけど。僕は頭がいいからね!恥ずかしい自己PRと志望動機を書いて、その内容も書かないでおくけど、とにかく一歩踏み出してみた。ここですぐに決まるとも思えないが、近いうちに、別のところに移ることになるだろう。どうなるんだろうなー。未来が楽しみだってことにしておく。しておく。

テレビで自動ブレーキの話。それを聞いて、車で崖に突っ込もうにも、速度は出ないし、直前で止まるしってなるんだろうなって思った。誰かの労りのおかげさまで、死ねなくなる社会。そんで、その妄想は飛躍して、僕たちを生かす優しい権力者の作った街が、ビルから人が飛び降りると形をウネッと変えて、下がクッションのようになって、どうやっても死ねないというSFになった。
これはSFで、現実はきっと、そんな大変なことせずに、死にたいと思わないように、脳にアプローチしてくるんじゃないかと思う。薬か電極か、はたまた情報か環境かは分からないけれど。誰もが希死念慮を抱かなくなった世界は、ユートピアなのだろうか。

いつもいなかった誰かみたいだった私が、青梅街道沿いのサイゼリヤで、黙って探していた最後の間違いを見つけたときに兄は、これまでのことを責めるような目でこちらを見ていた。これまでのことを責められていると思ったのは私の勝手だ。ただ団欒の時間に、一言も発さずに、子どもを黙らせるために置かれている間違い探しすることで、子どものように黙った今の数十分に怒っていたのであって、それも分かっていたけれど、まず高校に行かなくなって、家に帰らなくなって、顔を合わせなくなっていたのだから、久しぶりに会う気まずさを思ってほしかったし、なによりも、まずここにいることを祝福してほしかったわけよ、私は。あと、黙るのが長くなってしまったのは、間違い探しが難しすぎるからだし……。

人の一生を左右するドラフト、日付変わって今日のことだね。とても楽しみにしている。別に、誰がチームに来ても応援するし、有力選手の誰がどこに行っても構わない。僕の楽しみ方は、指名された選手の名前で検索して、成績を調べたり、フォームを見たりして、来年を妄想すること。小川の時なんか「かなりいいんじゃね?」って思ってたし、大下も「世評よりはやれそうだけどなあ」って思ってたよ!(後出しじゃんけん)
まあでも、人の仕事場がどこになるかより、自分の仕事場の心配をした方がいいことは、重々承知の助だ。