ブログ「いらけれ」

少し涼しくなってから僕は、月に一度は吉祥寺まで自転車で一時間ぐらいかけて「古書 防破堤」に行くことにする。運動になるし、移動のお金はかからないし、本は手に入るしで、こういう一石三鳥に生きているって感じがする。
ケチで貧乏人(最悪!)だから、買う本に悩んで一時間ぐらいいる迷惑な客で申し訳ないのだけれど、そのおかげで、小島信夫の小説論とか大澤真幸と國分功一郎の対談本とか、知らなかった本を買えた。

「こんなの、誰が読むんだろう」というような本を棚から抜き出して、颯爽とレジへ向かう知らん人に興味と憧れを持っていたら、いつの間にか僕が知らん人になっている。なり方があって、それは自分なりの課題を見つけて、そのことについて知りたいとか分かりたいと思う、というものだった。だって、自分なりの課題を深く理解するためのヒントは、たいていベストセラーには書かれていない。人間はつまるところそれぞれに特殊な存在で、悲しいほどに違うから、自分なりの課題も別々で、誰が読むのか分からない=自分が読むしかない本を読むように追い込まれる。

悲しいほどの違いを手に入れたときに、やっと人生が始まるのだと繰り返し言っているのは、それまではあなたはあなたでありながら他の誰かでもあり、それゆえ誰でもないからだ。「新しいあなたらしい道を探し手に入れろ生きる証」ってLIBROも言っていた。

他者の基準に、社会で流行りの基準に合わせて生きて、そのなかで受ける言葉で話すという処し方はあって、でもそれでは絶対的に駄目なんだ、ということを分からざるをえなかった一年は、とても苦しかった。僕は、よく生きたなと思った。一見正しそうで優しそうな、でも本当は自分がよく見られたいがためのおためごかしは、いつかどこかで裏返って、最後には人を深く傷つける。僕は独りで、僕なりの課題に向き合おうと思った。この独りの先にしか、誰かを救う言葉はないと思ったから、単数が複数になるまでの、これは闘いだ。

ブログ「いらけれ」

そいつの話した理想や希望が綺麗事で、人を変えるような力を持たないどころか、上辺を取り繕うだけのshitだったということを、そいつ自身の終わっている振る舞いで証明しているような偽善こそが撃つべき対象だった。

人生の底で、私は人生の課題を見つけ、それは偽物の言葉ではない本当に人を救う言葉で、言説で人を救うことだった。

課題を見つけた人間は、不幸な偽りの人間よりも幸福なのだろう。幸福なふりをできてしまう偽りの人間は、不幸に立ち向かえず、死ぬまで不幸なのだから。生きるとは思うことであり、奮闘することであり、立ち向かうことなのだろう。人生に立ち向かわないかぎり、人生は始まらないのだから。

ブログ「いらけれ」

今朝は西武線が停電して上石神井かどこかの駅で止まっていた。「停電による車両故障のため……」というアナウンスに、故障したから停電してるんじゃないんだ、と思った。暖房も切れて、それでもドアはずっと開いたままだったから、閉めてくれればいいのに。手袋をしたら、本をめくるのが難しくなった。

会社の行き帰りに柴崎友香『フルタイムライフ』を読んでいると、ずっと仕事場にいるような気になる。こう書くと悪いことみたいだけど全然違って、むしろ心地がよいから不思議だ。私が勤めているのは、こんな会社じゃないからだろうか。人間が別の世界の、違う社会の、そこで暮らす他者について考えてみるのは、小説を読んでいる間だけなのかもしれないと思った。

ちなみにあらすじはこんなだが小説は全然違って、「なれない仕事」の内容が展示会の受付でレモンイエローの変な制服を着なきゃいけないとか、訪ねてきた営業に一人で応対するけれどお互い新入社員だったから会話がぎこちないとか、そういう話でよかった。

小説にすれば、私も書くことができるだろうか。東京メトロの定期券は一段と高く、西武線は拝島ライナーのあとに各駅停車がきて、その次に準急がきて泣きそうになる。もう9時だというのに、なんでも伝染ってしまいそうなほど混雑した車内で、つり革に掴まった。

前に座っていた女の人がとても大きな楽譜を取り出したから、少し重心を後ろに傾ける。ページの端が折れ曲がっているそれとくっつきそうだった顔が、上を向いたのに目が合わなかったのは目が閉じられていたからで、その瞼を見て私は、ああ今この人のなかに、この瞬間に、音楽が、音楽が流れているんだ! と思う。したたか感動して、気がついたらもう泣いている。よっぽど「今、今、聞こえているんですね」って話しかけたかったけれど、そんなことはこの社会では許されていない気がして、やめておいた。そのうち電車は駅に着いて、出会ってないのに別れた。

ブログ「いらけれ」

「 早く帰りたい」と思いながらホットミルクティーを啜り、目隠しの施されたガラス越しの街を心の目で眺めていたあの頃、私は幸せだったのだと、大学の一階に入っているサブウェイが休みになって、”難民”になって思い知った。落ち着いて小説を読みたいし、ちゃんと野菜も取りたい。なのでサブクラブカードも作りましたし、メルマガ会員にもなりました。クーポンを使って、あのねっとりしたポテトが食べたい。
年末年始は大学が休みだから営業しない、それは仕方のないこと。でも、いつも店にあんまり大学生いないぞ?そもそも客そんなにいないぞ?空いているから使っているという面もあるのに……ってこれ、春とか夏も休むということか?と気がついて、とても悲しい気持ちになった。大学め。

『対話の技法』を読み始めたのは武蔵野線の中で、30分歩いて新小平駅まで行って、府中本町駅から出ている無料バスは座席が埋まっていて、カーブを曲がるたびに足元をふらつかせていたのは私だけだった。

12月30日にもかかわらず午後1時は十分に暖かく、さらに牛炊も食べたから汗ばむほどだった。レースが始まったから水面に近づく。金網にもたれかかって、ボートが跳ねた飛沫が風にのってここまで届くんだとか、消波装置が立てるぎしぎしという音とか、来ないと分からないことがたくさんあった。

1000円ぐらい負けたけれど、全部で3000円以内でとても楽しかったからよかった。また来ようと思った。書きたかったことには、今日も届かなかった。それではまた明日。