ブログ「いらけれ」

カジュアルな会話の上ならば、僕は自由に、いくらでもなめらかに踊ることができるし、当意即妙な切り返しなんてお茶の子さいさいだ。目をつぶっていてもできる(そりゃそうだろう、話しているだけなんだから)。それが、文章を書くとなると途端にぎこちなくなってしまう、LINEの返事一つとっても、少し時間を置かないと出てこない、そんな男が毎日日記を付けているのだから、大したものだ。
「面と向かって誰かと話す」という行為は、コミュニケーションの必然性によって、常に急き立てられている。だから、その場で思いついたことを言ってしまう。それが正しいのかどうか、正直なのかどうかということが、一旦脇に置かれて、さしあたりの適切さや面白さを優先してしまう。対して文章は、発話より作文の方が時間と距離を取れるから、より慎重でいられる。言いたいことが、頭の中で結晶化する(というイメージ)まで、書き始めることすらできない。でも、これは必要な遅さだから、僕はそれでいいと思う(いつも連絡が遅れがちで、友人には申し訳ないけれど)。

昨日の頭痛が残っているというのに、痛み止めを飲んで出かけた。西武新宿線の急行電車を途中で乗り換えて、中井駅で降りた。久しぶりに歩く中井は、なんかグッドバイブスな街だった。いい感じの川が流れていた。細い道に、色々なお店が雑駁に並んでいた。歩くのに良さそうな街で、いつか住んでみたいと思うけど、そういう風には見えないだけで、家賃の相場は高かったりするのだろうか。こういう時に、常識がないのがバレるな。
大江戸線に乗って六本木へ行かなければならない理由が、僕にはあったから階段を上って、日本列島を襲う猛暑に晒される人々のなかに混ざったら、どのようなことが行われているのか、さっぱり分からなかったが、テレビ朝日の近辺は、大勢の人で賑わっている脇をすり抜けながら、世の中心はあちら側なのであって、間違っているのは僕なのだということを、心に留めておこう。
ビルの一室で、知らないアニメを見せられる。設定の細かいところに粗があって、早く終わらないかなあと思っていたら、本当に早く終わって助かった。「金は命より重い」とか言って、金のために人身が粗末に扱われる物語は多いし、別に、そういう思想でストーリーを作るのもいいけど、流行っているからと考えなしに設定だけもらってくると、大したリターンもないのに、なぜか危険に身を晒す人々が続出する話になる。そして、そういう話だった。自爆テロは、金では起こされないというのに。
予定が予定より早く終わったことの連絡を入れて、飲みの予定の店へ行く。駅前が催されている祭りで混雑していたから、僕はなかなか進めなかった。記憶の時間は、行ったり来たりする。ただし、楽しかった思い出は、すべてがすでに過ぎ去っている。新しい「楽しい思い出」を作っていくためにも、僕は平和を望む。

ブログ「いらけれ」

しどけない部屋ですね。僕は、世界の真理に繋がるとんでもない発見をした。つまり、部屋の床に物を置くところから、すべての堕落が始まるということを。床をテーブルのように利用した瞬間に、物が置かれていることが当たり前になってしまって、そこからは坂道を転がり落ちるように、片付けられない人となる。だらしない人ですね。ここから脱出するために、頑張らないといけない。

なんでもない話をしていて、小学生の頃に「ゲーム脳に注意!」みたいなプリントが配られたことを思い出した。科学とか、それについての知識とか教育のレベルとか、推して知るべしって感じだよなあ。手法とか手続きとか、本当に軽視されているよなあ、ずっと。

「ユーチューブのおすすめに出てきた」というきっかけで見たんですけど、三拍子の漫才が面白い(「三拍子の『銭湯漫才』」これとかすごい好き)。発想とか、すごいなーと思う(これだけ笑ってしまうということは、プロが見れば、技術的にもすごいことをやっていると思うんだけど、素人には分からない)。再生回数も数万回とか結構多くて、テレビでは流れないような、ある程度長さのあるネタが見たいという需要も、潜在的にはあるんだろうなあと思った。とりあえず、チャンネル登録はしたけど、それよりも生で見たいなあ。

祭りの季節になって、公園で、大きなテントの下で、かき氷を売っているのを見かけることも多くなった。ここから、いつものように思い出話が始まりそうな書き出しで、そうはならない。なぜなら、祭りに誘われるような幼少期を送っていないから、思い出が一つもないからだ。幼稚園児の頃には、親に連れられて行って、ヨーヨー釣りとか綿飴とか、好きだった気はする。ヒーローのお面とか、付けていた気はする。買ってくれないチョコバナナとかりんご飴とか、食べてみたかった気はする(今の今まで、どちらも食べたことがない)。
予定があって急いで降りた駅前で、お祭りをしていた。広場に設置されたステージで、大きな音で演奏をしていた。出店によって狭められた通路は、たくさんの人で混雑していたから、僕はなかなか進めなかった。
祭りは、有無を言わせないものだと思う。琵琶湖並みに広い心、そのようにありたいと思っている僕は、それはそれとして受け入れた。でも、自分は不幸せだと思っている人が、祭りに参加するような気持ちにゆとりのある人たちに巻き込まれたら、良くない何かが起こってしまいそうだと思った。

正しくあることも、正しくあれと願うことも、それらすべてを記述することも、すべて正しい。でもそれは、魂を削られることでもあるから、それで磨り減ってしまっては元も子もないのだから、日常に低速を導入する。呑気に見えるかもしれないけど僕は、そういうやり方でなければ、正しさを実現できないと思っている。

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久しぶりに長いツイートがしてみたくなって、頑張っては見たものの140字には届かなかった。あの名前ビンゴみたいなやつ、実物を見たら、絶対に"ちょっと面白い"と思うはずなのだが、見せられないのが残念でならない。今日のスワローズは勝ったけど、いつも負けてばかりなので、プロ野球ニュースをチェックしていないから、巨人に横浜が肉薄しているなんて知らなかった。実況でそんなことを言っていて驚いた。解説が、実況に「あらいさん」って呼ばれていたから誰かなと思ったら、あの新井さんだった。広島戦じゃなかったから、ピンと来なかった。検索してみたら、今年からTBSの専属解説者になっていたようだ。へー。

昔好きだった人の名前を、検索窓に入れたことのない人だけ、僕に石を投げてよし。そういうことをして、自分のさもしさを思い知るのをやめたい。検索してしまった後に、心に残るあの痛みをすべて集めたら、一思いにあの世へ行けそうなのにな。

目の痛みで目が覚めた。昨日の夜に突然、左目に刺すような痛みがあって、「ほほう、これは結膜炎ですな」なんて、なったこともないのに早合点していた。ほっといたら治るだろうと、そのまま眠った。前述の通り、寝て起きても痛かったので、顔を洗うついでに様子を見ようと鏡を覗き込んだら、眼球にぐるぐると髪の毛が巻き付いていた。あまり良いことではないのだろうが眼球を指で触って、はり付いている長い髪の毛をなんとか取り出せたときは、なかなかの快楽だった。

適当な散歩をしていてたどり着いた小平駅のそばに、それははり付いていた。「不断の私たち」で書いた、落としてしまった靴のかかとに付ける滑り止めだ。土で汚れて、だいぶ茶色くなっていたが、それが何かを知らない人が見たら、宇宙人の落とし物とでも思ってしまうような不思議さはそのままだった。僕は僕なので、それを拾おうとしたら、しっかりと地面に接着していて、「だったら靴にくっついとかんかい!」と思った。どこかの藪の中にわざと置いたら、それを見つけた子どもが、珍しいものに違いないと宝物にするのではないか、などなど、妄想は捗ったが、僕は僕なので、家まで持って帰って、捨てた。

僕の考えていることを、試みていることを、分かってくれる誰かが、どこかにきっといるはずだと妄想できているから、この日記が続いている。それがなくなったら、口を噤むだろう。

ブログ「いらけれ」

8月になってから、そちらはどう?今日は、読んでくれている人(主に僕)へ、語りかけるように書いてみよう。こちらは低調で堪らない。もちろん、度し難い人々の態度に、疲れてしまっているという面もあるよ。誰かのせいで、脅威を感じている誰かに対して僕は、その誰かとは違うと表明することで、誰かの心が少し安らいだりするのだろうか、などと考えなければならない状況が悲しくて辛くて、言葉にならない感じなんだ。

僕を置いていく速さで訪れた夏は、そちらにも同じように訪れたのだろうか。同じ夏。同じ月を見ていたら嬉しい。今日の月はとても細かったけど、僕がそれを見ることになったのは、全力で蝉が鳴く夏のせいだ。

夏には、玄関の扉が重たく感じる。だって、死んじゃうかもしれないって思うぐらい暑いんだもの。ありふれた午後に、ほんの少し外に出るだけでいい。そうすれば僕は、びしょ濡れになることができる。びしょ濡れといえば、夕立も降るじゃん。爆発したみたいな音を立てる雷も恐ろしい。なので、歩く距離がめっきり減ってしまったんだ。歩くことは、僕の体の調子を整えてくれていたし、そこでネタを拾うことも多かったから、だから今、僕は上手く書けなくなってしまったのだろうと、そう思っている。

ここまで遠回りして、日が落ちてから散歩に行ったということを、言いたかっただけなんだ。ひと月前は二時間以上歩けていたのに、今日はたったの一時間で心が折れた。でも、暑さに負けないで外に出た甲斐はあって、爆発みたいな音がしたから、何かと思ってイヤホンを外したら、西武園ゆうえんちの花火だった。

近所の公園は、高台になっているわけでもないのに、とても綺麗に花火が見える。偶然その方角にだけ、高い建物がないのだ。小さな明かりしかなくて、よく顔の見えない人たちが、自転車で集まっていた。僕も、少し離れた場所に座って、短い時間だったけど、花火を眺めた。

前のマンションに住んでいた頃の夏は、エレベーターで最上階まで行って、そこの階段に座って、この花火をよく見たものだ。目の前の花火は、過去とのトンネルになった。まだ自分に、家族に、社会に憂いを持っていなかった僕がそこにいた。

家に帰ったら地図を見て、一人きりになれる穴場スポットを探そう。一人きりでこの花火を眺めたら、あの、憂いのない世界に戻れそうだ。過去に戻ることを夢見る僕は、もう未来に期待をしていないみたいだ。

やっぱり、独り言になってしまった。いつか、本当の爆発音がするようになったとき、思い出されるはずの文章になってしまった。いつだって後悔しているのに、後悔しているときにはもう、すでに取り返しがつかないんだ。