ブログ「いらけれ」


The Smiths – There Is A Light That Never Goes Out

日記を書かねばならない。と思って、考えることを妨げないから、聞きながらでも書ける音楽番組を、と思って、「InterFM897 Music Mix」の、8月24日の24時半から放送されていたものを、ラジコのタイムフリー機能を使って再生したら、3曲目にこれが流れた。久しぶりに聞いたけど、いつ聞いても心が動く。

僕たちは、優れた音楽家や小説家の、あるいは映画監督の、いや、何でもいいって言いたいだけなんだけど、芸術家である彼らの、政治的な意見や立場が、受け手である自分と著しく違うことに、怯えなければならない時代にいる。単純に、インターネットで発信する場所や機会が増えたから、というだけの理由ではない。彼らの作り出す作品のなかにも、政治的なメッセージが込められることが増えているように感じるからだ。でもそれは、インターネットを使うみんなが、びっくりするほど気軽に、政治的な発言をするようになって、何でも言いやすい空気が醸成されたから、政治的な意見の表明に、作品を使いやすくなったからなのかもしれない(つまり、インターネットが原因なのかもしれない)けど。
感性のアンテナで、電波をビビビと受信する側はとても身勝手に、「この作品は僕のために作られたに違いない」なんて大袈裟に感動して、作り手と大事な何かを共有した気になってしまうものだから、それはとても辛いことだし、作品を好きになった過去の気持ちまで、濁っていくように感じてしまうこともあるだろう。
でも、そこからが人生にとって有益な体験というか、彼の過去の作品のなかに、そういう思想を持つに至る萌芽がないか探したり、ある時までは同じ方を向き、とても近くにいた(はずの)彼と自分との間に、いつから、そしてなぜ、大きな川が流れるようになってしまったのかと考えたりすることは、癒されたり慰められたりすることよりも、もっと大事なことだ。

とはいえ、全員が間違えながら進む現世だから、不安に思うことなど一つもない。綺麗事ばかり言う僕も、アンケートサイトで当選した座談会で、ひどいデマを垂れ流す奴の人種差別的な発言を、聞こえないフリをしてやり過ごし、目の前のそいつに憎悪を抱いてしまった。理想主義者の毎日は、後悔と反省ばかりだ。

帰りの乗り慣れない地下鉄で、ツイッターを見ていて乗り過ごす。ぱっちり目だったのに、間抜け過ぎて驚く。高邁な理想を掲げる前に、まずは身の回りをちゃんとするところからだろう。

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面白くないなって思う。面白くないことばかりだ、誰もいない部屋なのに。自分が一番つまらない。そのように感じてしまうのは、何もしてこなかった自分と、何もしていない自分を、自分が一番知っているからだ。そんな人間が書けることなんて、高が知れているって話だ。だから時間とか運命とか、世界とか社会とかをテーブルに乗せて、誰にでも言えるようなことを言って、恥ずかしい。罪深い一人遊び。
ただの日記に、何を期待しているの?って、でも毎日が、それについて書かれた文章が面白くないのは、自分への裏切りだと思う。楽しく生きなければならない。それは、地獄にいることを知って、この先も地獄が続くことが分かって、それでも生きることにした、いつかの自分との約束なのだから。でも毎日が、自分への裏切りになっていると思う。自堕落で寝ぼけて、その場をやり過ごしているから、こんな暮らしが続いているのだろう?
恐らくもう、自分ではどうすることもできない。正確に記すならば、一人ではどうすることもできないだろうということで、誰かに救われることにした。それは、まだ見ぬ誰かなのかもしれないし、すでに見知った間柄の誰かなのかも分からない。単数なのか、複数なのかも分からないけれど、必ず救ってくれるはずだ、その誰かがヒーロー/ヒロイン/アベンジャーズとなって。
こんな後ろ向きな"メン募(メンバー募集)"、かつてあっただろうか、という内容になってしまったが、革命のためなんて、大それたことは言わないから、主に僕を救うために、手を貸してくれる人はいないだろうか。いや、救ってくれなんて厚かましいことも言わない。ただ、話しかけてくれるだけでも勇気になるよ。もし、それならいいよって思ってくれたら、「なんでも箱」というページやメールアドレス、ツイッターから連絡をいただけると幸いだ。

GRAPEVINEの「Chain」が、一々染みてヤバい。

声にならないわずかなエコーを
拾いあげて
こわれそうなそれをどうやって
うたうのだろう

給水塔が高い。いつもは通りすぎてしまうけれど、その団地には"レトロフューチャー"って感じの形状の給水塔があって、ちゃんと見ると、やっぱり高い。子どもの頃から、ユニークな形をしたそれが好きだった。でもその頃は、それが何なのかは知らなかった。給水塔であることを知ったのは、大人になってからだと思う。だから、それを何だか分からないまま好きで、団地に住んでいる友だちの、部屋に辿り着くための目印としていた。あの頃は友だちが多かった。本当に引く手数多だった。誰とでも上手くやれていた。教室の、すべてのグループと仲良くやっている自分を、誇りに思っていた。しかし、自意識の病にかかった時から上手くやることができなくなってしまった。上手くやれたら、こんな暮らしを続けていないのだろうと思う。今よりも友だちが多いだろうし、彼女もいるかもしれない、仕事だって……とても愚かな僕は、変わってしまったけれど、給水塔は変わらない。心が揺れる。

ブログ「いらけれ」

昨日も涼しかったから大丈夫に違いないと、日焼け止めも塗らずに外へ出たら、雲の隙間から日が差して、やや暑かったけれど、心地良い風が吹いている。そして、それまでとは空気が変わっている。さっぱりしている空間は五月に似ている。蝉の鳴き声が弱々しくなっている。暦の上だけではなく、本当に夏が終わるんだな、と思う。秋には何をしよう。そう楽しそうに考えている僕を発見して、僕は元気になる。

これを書いたのは少し前のことで、甲子園も決勝が終わって、もう夏は、息も絶え絶えである。葬儀に参列している。見送っている。
この身体の不調は何だろう。毎晩毎晩パニック発作に襲われて、真夜中に目を覚ましている。このようにして書くと、本当に死んでしまったときに恥ずかしいから、今日まで書けなかった。死んだら死んだ、さ。と思えたので書いた。
カフェインのせいかもしれない。カフェインの過剰摂取は、パニック発作を引き起こす要因になると言われている。皆様にも、お気をつけいただきたい。コーヒーは、毎日何杯も飲んでいる。今日は、コーヒーを我慢しようと思った。我慢はできたが、振り払えない眠気のせいで、20時に寝た。
他人が嫌いだ。他人によって思い知らされるのは、自分のまともさだ。ずっと、自分が最後尾にいると思っていた。学園は、世界が閉じていたから。大人になって、そうではないことが分かった。比較的マシな自分は、狂った人々の隙間で暮らし、ストレスをためていく。
23時に起きたから、明け方に散歩しようと思う。幸いなことに、頭はスッキリしているし、次の夜まで眠くなることはなさそうだ。目前に時間があったから、アンケートに答えていた。その中の一つに、性格分析を受けなければならないものがあった。
回答を終えるまでに、10分程かかっただろうか。僕の性格は、仲介者型に分類された。詳しくはご自身で調べていただきたいが、分析サイトの診断結果には、理想主義者で創造的で、作家や詩人に向いていると書いてあり、そこまでは良かったが、さらに検索してみたところ、仲介者型は生きづらい人々だ、と書いたサイトが数多くヒットして、そんなことは言われなくても知ってるよ、現在進行形で感じているからね、と思った。
4時半の空は明るい。巨大な墓場の中へと進んでいった。木々の向こうの、遠くに見える空は美しい。そしてやはり、肌で感じる空気は涼しかったのだ。これならば、これからも歩いていけると思った。
作業服の男性は、トラックが何台も駐車されたビルの前で、車を待っているのか、歩道に佇んでいた。一握りの気まずさを胸に、その前をすり抜けた。ビデオ販売店に貼られたポスターの中央には、和菓子のようなものが写っていて、何だろうと顔を近づけると、下に書かれたキャプションに、「セルフプレジャー・アイテム」とあって、すべてを理解すると同時に、新たに生み出された表現に感心した。コンビニの前に置かれたごみ箱に、家庭ごみと思しき袋を、続々と押し込んでいく男。これが早朝の現実で、世界は、歩いていくには余りにも下らない。

ブログ「いらけれ」

問われているのは、惑星単位の時代傾向に対して、いかに挑発的でいられるか、挑発的に生きられるかということだが、そのことが分からない人は、死ぬまで分からないのだろうな。

人間が人間になって以降、有史以来という言い方をしてもいいけど、とにかく長い時間が経っていて、僕たちは、百年先というのは、まったく別の世界になっているように想定するけれど、歴史を見れば、百年というのは大した長さではなくて、百年後もおそらく人間は、これまでのように争いを好み、闘争を続けていることだろう。
人類が犯した過ちの記録は、歴史の記述の中に数え切れないほど収められているのに、人類が過ちを犯さないようにする/なるための知識や知恵が、ほとんど蓄積されていないように感じるのは、失敗から得られた教訓を誰もが知るように、誰もが心に留めるように、そうして伝えていくことに失敗しているからだ。
ずっとそうだったのだから、絶滅までこうなのだろうが、それでも、今生きている人間には、やるべきことがある。

装丁がかわいいからといって、犬が好きだから予約したわけではなかった。『この映画を視ているのは誰か?』も一緒に予約したからだ。『私は小説である』の話だ。何かきっかけがあったから、買ったというわけではない。内容に興味があったからでもない(どんな本なのか、詳しく知らないのに注文したから)。強いて言えば、著者に信頼があるというか、これまでにも、いくつかの著作を読んで面白かったから、それは、約六千円を支払うことに、十分値する仕事だったから、今度の本も読みたいと思った気がした。それでそうした、という自分の判断は、それほど間違っていないはずだ。

小学生の頃、僕たちのクラスでは、 5W1Hゲーム(とは呼ばれていなかった。なんつってたっけな。「いつどこで誰が何したゲーム」とかかな)がとても人気だった。それは時々、先生の思い付きのように始まって(いたが、レクリエーションとして、もともとカリキュラムに組み込まれていたのだろうか)、並んだ机の、縦の列に座る生徒たちが、いつ、どこで、誰が、何を、どうしたか、それぞれ発表していく。すごい笑って、みんな、すごい好きだったな。なんで、あんなに単純なことが、あれほど楽しかったのだろう。
このことを思い出したのは、「さまぁ~ず×さまぁ~ず」という番組で、さまざまな単語が書かれた紙のなかから、ランダムに二枚引いて、妖怪を作る(例:妖怪おじさんだらけ)という企画をやっていたからだ。
これらのゲームが生み出すものは、偶然が導くありえない言葉の並びであり、混ざり合わないはずの単語のカクテルが引き起こす奇跡だ。だから、あの頃の僕たちは、単に面白いからとか、笑えるからということではなくて、意味というものに強く縛られている僕たちの世界に、偶然と奇跡を導入してくれるから、あれほど熱狂していたのだろうと思う。