ブログ「いらけれ」

昨日の日記は、「最近はもう、辛いなあとため息をつく毎日を手元に置いて、お金持ちの家で飼われているシャム猫のように撫でている」と始まったわけだが、この文章はちょっとおかしい。それは分かるのだが、直すのも難しい。毎日=シャム猫、自分=猫を撫でるお金持ちというように、二つのものを同時に喩えているからだ。

こんなこと、書いたときには気がつかなかったのに、今日になって、昼間散歩をしているときにふと、(あの文章、間違っているのでは……)と思った。これは、人間の脳は不思議だ、という単純な話ではない。そこで思い出すということは、書き終えた時にも、何かしらの違和感があったはずで、でも、時間がないとか、一文に付き合うのが面倒くさいとか、さまざまな理由を付けて、無意識的に無視することにしたのだろうと思う。

自分にとって都合の悪い、目をそらしてしまいたいことを無理矢理抑圧しても、そいつは必ず、いつかどこかでむっくり起き上がって、あなたを苦しめることだろう。

わざわざ、この猛暑のなかを歩いていたのには理由があった。この頃は、楽天ポイントをゲットするという目的がなくなったので、とても適当に歩き回っているのだが、ある時僕は、7月から8月になったことを思い出した。だから、綿半スーパーセンターに行って(ことの経緯は「Exhibition」に)、イベントの予定をチェックしたら、この土曜日に将棋大会があると書いてあったのだ。

つまり、それに向かっていたわけだが、すでに、開始予定時刻の13時から30分ほど過ぎていた。なぜか。11時まで眠ってしまったからだ。夏の暑さが、知らぬ間に蝕む身体。疲れていることを、察知できない頭。結果、40分ぐらい遅れて店に着いたところ、将棋をしている人も、将棋盤も案内も、何一つ見つけることはできなかった。本当に、やっていたのかなあ。来月は、遅れないようにしよう。

弱っているからか、今日も頭が痛くなる。時間が余ったから、どこかへ行こうかとも思っていたのだが、頭痛が悪化してしまうことが恐ろしい。直射日光は遠慮がなく、日陰だけが頼りの小平霊園で、遠くで風になびく木々にピントを合わせながら、目を癒していた。

こうして書いている僕は今、電子レンジにかけたタオルを首にかけている。慢性的な肩こりは、温めた方が良いのだという。まずは目の疲れを取るために、「タオル 温める」で検索して、1分ほどチンした。理髪店で顔にかけてもらう蒸しタオルだ、と思った。非常に心地よかったと同時に、子どもの頃を思い出した。大人になってからは千円カットばかりで、そこでは蒸しタオルをかけてもらわないから、とても懐かしくなった。感傷的な、これは「ただの夏」だ。


けもの「ただの夏 」(MusicVideo)

ブログ「いらけれ」

最近はもう、辛いなあとため息をつく毎日を手元に置いて、お金持ちの家で飼われているシャム猫のように撫でている。ヤクルトスワローズがちょっとあり得ない負け方をしたりだとか、家の近くのイオンで楽天チェックというアプリの来店ポイントが貯まらなくなったりだとか、8月は向かい風ばかりだなあと思う。

一番こたえたのが、またプレミアリーグの話になってしまうんだけど、週末を楽しみに思いながら電子番組表で試合を探すが、どれだけ探しても放送予定がなかったこと。僕は、サッカーのことをそこまで好きじゃないから、J SPORTSが放映権を獲得できずに、DAZNが独占中継するということを、そこで知ったわけだ。

放映権で取引してビジネスしていくんだ、ということを考えれば、ずっと同じところで見られるわけがない。放映権の獲得競争をさせたことによって、リーグ側は実入りが良くなっていたりするのだろうから、悪いことばかりではないはずだ。

とにかく、2千円いかない程度のお金を、毎月払うほどではない自分が残念。何についても、そこまで好きになれないのが欠陥。もし、野球が有料のネット配信でしか見られなくなったとしたら、多分見なくなってしまうのだろう。

(一人で暮らし始めたら、事情は変わるかもしれない。テレビは買うとしても、ケーブルテレビには加入しないだろうし、Netflix+DAZNというのはアリだな。いや、AbemaTVでMリーグを見て、TVerでバラエティ番組の見逃し配信を見て、あとはYouTubeで……みたいな、タダライフを過ごしてしまいそう。ちなみに、一人暮らしの予定は無い。)

僕が、少しだけ知っているものはすべて、真夜中に学んだものだ。将棋も麻雀も、それまでにルールだけは覚えていたけど、番組内の解説のおかげで見方を知った。サッカーもゴルフもそう。目の前で起きていることを、(一部の解説者が)言葉で分かりやすく説明してくれていたから、その面白さを理解することができた。

不登校児は昼間に寝ていた。好きな深夜ラジオさえも終わってしまった明け方に、海外サッカーやゴルフのプレーが始まる。将棋や麻雀は、専門的なチャンネルで無思想に流され続けていた。インターネットはあった(まあ、動画サイトはなかったが)けど、人生の引き出しが少ない中学生には、エロ以外に何を摂取したらいいのか分からなかった。そこにあって消去法で選んだものが、僕を形作っている。

今となっては、好きなものしか見ないインターネットだ。これだけを使っているのは、どうにもまずいよなあと思うことはあって、でも、あの真夜中性を再び取り戻せないことも重々承知している。出会わなければ良かったとまで思うような、人生が狂ってしまうような何かを求めていながら、もう無理だろうなという予感で、胸の内は溢れている。

真夜中にボーっとサッカーを見られない世界は、むしろチャンスだ。これだけのチャンネルがあるのだから、その気になれば僕は、新しい何かに出会うこともできるだろう……なーんか、その気になってみたい気もしてきた気がするね。

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サッカーのプレミアリーグが今週末に開幕するという。そのことに気が付いたのは昨日だった。やっぱり僕は、サッカーのことも、あまり好きではないのだろう。専門性のある人に憧れる。これ、と決めたものに、自分の体を投げ込むようなあり方。とても中途半端なまま、年を取ってしまった。そして、これからもそうなのだろうと思うと、とても暗い気持ちになる。

仕事探しをするつもりで、インターネットを使って、そういうサイトを見ても、とても暗い気持ちになる。これ、の無い人間に都合よく職場が見つかるはずがない。苛立っている暇があったら、英語や、資格取得のための勉強でもしたらいいのに、それもしない。中学生になったら、とか、大学に行ったら、とか、そのように先延ばしにされていたけれど、自分がすべきことは未だに分からないし、やりたいことでは生活していけない。駄目な人間の暮らしに、正解はあるのだろうか。

とはいえ、どうせ死ぬし。何かやるなら今かなって、目を覚ましたとき直感的に閃いたことを思い出した。無意味な生に、意味なんてないのだから、失敗しても死ぬだけだし。まずは、ゲームをやめるところからだ。ゲームをしているとき、僕は何をしているのだろう、と思うことがある。ゲームをしているんだけど。頭の中で何かが起こっている。ゲームばかりしてしまう。ゲームに囚われてしまう。それほどまでに没我する自分が、本当に分からなくなる。こんなこと、前にも書いた気がする。

すれ違う子どもの顔を見て、その子が大人になったときを、ばっちり想像できるときがある。大人びた顔をしているだけなんだろうし、本当に成長していく姿を見て確かめたら、全然違っているんだろうけど。あと逆に、その人の子ども時代を思わせる大人というのもいて、それは単に若々しいってことでもなくて、ずっと変わりがなさそうな感じというか。ってこれも前に書いた気がするが、どうか。「読んだことあるよ」という方は教えてください。「高校野球に興味が持てない」という話は、日記を検索したら、去年の8月に書いていた。

自由になろうと思えば、どこまでも自由になれる環境が整っているのに、どうして古臭いものが帰ってきているのだろうか。あるいは、人々はなぜ叶わない復古を望んでしまうのだろうか。ここまで生きてしまったことは、本当にただのラッキーで、その申し訳なさから来る義務感があって、誰も考えないことを考えなければならないと思うし、人々が間違ってしまうのを止めるために、できることをしたいと思う。

頭がおかしい、駄目な人間なりのやり方で。今日はこれで一区切りを付けて、絶対ないと思うけれど、仕事を募集してみよう(メールアドレス:tgoto27@gmail.com)。コメントやメッセージは、常に募集中であることも伝えておこう(「なんでも箱」)。明日は頑張る。そのように言うことで、人生はそのようになる。だから、明日はきっと、面白い日記が書けるだろう(今日とは違って)。

ブログ「いらけれ」

「伝説的USハードコアバンド、MDCのヴォーカルにして80’Sスケートロックシーンの生き証人でもあるデイブ・ディクター。FTC以前のSFスケートシーン、そして壊れかけた世界について大いに語る。──DAVE DICTOR (MDC)」
パンクシーンとか全然詳しくない私ですが、このインタビューは読んで良かった。もちろん、差別を受けている人々に対する愛あるメッセージが響いたという面もあるのだけど、反体制という文化や反常識という態度が、現在、どのように変化したのか/してしまったのかということを考えるきっかけになったから。今を分かるためにも、もう少し、歴史を見ていかなければいけないなと思った。

身体があまり良くないのか、何でもない午後1時に、一人シエスタをしてしまう(シエスタは別に、誰かと一緒にやるものではない)。二週目を聞いていたラジオが、意識と意識の間に滑り落ちていく。この大きな眠気は、どこに潜んでいたのだろうか。僕を襲った睡魔から逃れられたとき、僕は身体を起こした。
暑い暑いと、災害級の猛暑だと脅されていたものの、問題だったのは直射日光だけで、太陽が雲に遮られると、風のおかげで心地良さすら感じた。夏には、ずっとこのようにあってほしいものだ。
大きな墓地のなかで分かることがあって、僕も土に還るということと、墓石の遥か向こうの雲の隙間から覗く空が、ディズニーランドのアトラクションを思い起こさせるということだ。「絵みたいだ」と思ってしまうが、絵は、こうした光景を写し取ったものだから、こうした感覚が誤りであることも分かる。
霊園を出て信号を渡ったところで、境界点と書かれた四角い金属が、道に埋め込まれているのを見つける。何度も歩いたことがあるのに、初めて気が付いた。その時の僕は、暗い気持ちを抱えて、下を向いていた。下を向いていたから、気が付くことができた。今、下を向かざるを得ない誰かが、このように、何かを発見できますように。それが、どれほど小さなだったとしても、その誰かの心を、ちょっと明るくしてくれますように。

速読がここまで憧れの対象となっているのも、映画やドラマの再生速度を早めて見る人が多いのも、「見終わった」ということの価値が高まっているからだろうし、それは、見るべきものの数が増えているからだろう。しかし言うまでもなく、一つの作品をチェック済みリストに入れることよりも、一つの作品を楽しんで感動することの方が、よほど大切なはずだ。なのに、それらはすぐに忘れられてしまうし、あまつさえ「それを見終えた私」をアピールするための具に使われてしまう。観客の不在によって、表現一般がすでに瀕死状態に陥っているのだとしたら、現代に打つ手はもうないだろう。