ブログ「いらけれ」

負けた側からの人生を書いている。記述している。この前、宝くじを当てた人のインタビューを読んだ。宝くじを当てた人は、宝くじを当てただけなのに、話を聞いてもらえる。本当は、何が勝ちなのかとか、そのゲームに参加することが正しいのかといったことについて、書きながら考えを進めていきたいのだが、負けた(と世間で見なされる)人間の言葉は残らないから、残さなければならないという使命感で、そのように書いている。

今月の「デモクラシーカフェ」へと向かうために、家を出て数歩、歩いたところで思い出したのは、着ているポロシャツが裏返しで干されていたことで、首元を触っても裏返しに違いない、これはまずいと、近所のトイレに駆け込んで、焦りながらドアを閉めて、脱いで、それまで聞いていた「米粒写経のガラパゴスイッチ」(絶版図書紹介祭りが面白くて、本当に、アンビバレントな気持ちになる)のイヤホンを外して確認したら、裏返しじゃなかった。まあ良かった、と思いながら、そそくさとトイレを出ようとしたら、ポケットから垂れてしまっていたイヤホンが、ドアの下のところに引っかかって、挟まって、イヤホンの耳に入れる部分が壊れた。こんなピタゴラスイッチ、上手く説明できないよ。

「デモクラシーカフェ」が終わって、もうすぐ野球が始まるから、どこかへ食べに行くのもなあと、でも結局、スーパーを3つ回って、すごい時間がかかった。歩いている間、今回もあまり上手く話せなかったなあと考えていた。本当は色々なことを思っているんだけど、それを誰かに言うのは、とても難しいことだ。そのように感じているのは、おそらく間違いじゃないとしても、その先に行かなければならない。言葉を獲得しよう。
そして結局、一番家に近いところでお弁当を買った。2回表の試合を見ながら飲み始めたクリアアサヒは、大きい缶だと少し余計だった。一緒に買ったアボカドのサラダは、美味しかったなあ。メンチカツと唐揚げ、ひじきと柴漬け、半熟卵が入ったお弁当の名前は「明太弁当」だったけれど、ペースト状の明太子は、ご飯を半分以上覆っていた海苔をめくったら、その下には乗せられていなくて、とても残念。ただ、アボカドのサラダが美味しかったので、すべてを許そうと思えた。

バラエティ番組を見ている。ああ、と思う。人々は、コミュニケーションの襞の内に放り込まれている。余りにも微細な押し引きで、お互いを損ないながら、それによって笑い合う。差別も暴力も、はっきりとそこにある。だが僕は、僕たちが望むべき姿になるためには、こうした辛苦を受け止めて、傷と笑顔の揺らぎの中を進むべきなのだろう、と思う。そこにすべてがあるのだから、そこからしか始まり得ないのだから。