ブログ「いらけれ」

明るい話をしたいものだ。今のままでは虚無すぎる。自分の中には、ある日突然、地球が割れるというイメージがある。それでみんな死ぬ。一等真面目な顔をして、積み上げてきた書類が、組みあげてきた制度が、すべて無に帰す。大袈裟なように聞こえるかもしれないけれど、自分が身投げをしてしまう可能性は結構あって、そして、そこでは世界の終わりと同じことが起こっているのだから、決して誇張した表現ではない。誰かがビルから飛び降りる度に、地球は割れている。

生まれ直すことのできない人たち。連続性のなかで生きるしかない人たち。スマートフォンが、アップデートでただの板になっている間、少しほっとした。ツイッターばかり見てしまう。スマホの使いすぎが脳に悪影響を及ぼす、といった内容の記事を読んでから、見るのをやめようと思っているのに。将棋ばかり指してしまう。憑りつかれたように。しかし、最近将棋の方の調子が良くて、高い勝率を上げられているのは、なぜなのだろう。ほとんど勉強していないのに。生きているストレスで、心身ともに疲弊しているはずなのに。不思議。

人間の眼から、輝きが失われて見える時。人間は、己が何をしでかしているのか、まったく分かっていないのではないかと、とても賢い私は思う。人間が、偏見塗れの言葉を話すときの黒目が真っ黒。井戸の奥を覗き込んでいるようだ。だが人間は、自身の異変に気付くことができない。人間は、無謬を前提として、日々を過ごしているからだ。そしてこれは、他山の石としなければならない。果たして、いつ私の黒目から、光が消えているのだろうか。

毎日のように書いていると、自分自身でも忘れてしまいがちだが、当然のように書かなかったことがある。何かしらの意図があって、単に私的なことだからといった理由で、選択的に書かないようにしていることだってある。そうした取捨選択の積み重ねに、自分がやるべきことのすべてがあって、毎日が練習だ。鍛錬の先に何があるのかは、まだ分かっていないけれども。

無理矢理アラームで起きて、着替えて、アンケート調査のサンプル品を返送するために、コンビニまで行って、そのまま散歩へと移行する前に、お昼前だから、歩き疲れたらどこかのカフェに入って、ご飯を食べながらゆっくりしようと、本を取りに部屋へ戻った。それでやっと散歩を始めて、1時間程ぶらぶらして、いい時間になったから、グーグルマップで検索したものの、いつの間にか、周りに一つもカフェがない場所に来ていた。一番近いカフェよりも、家の方が近かったから帰った。という、オチのない暮らし。

ブログ「いらけれ」

仕事を探したいと思って探した。リニューアルしたというマイナビバイトが重い。設定していた検索条件が消えていた。担当者は頭がおかしいのだろうか。以前は、ログインしたらポイントがもらえていた。求人サイトで、ログインポイントは貯めたくないものだと思っていた。だって、毎日のように仕事を探しているということは、決まっていないということだから。貯まったポイントは、プレゼントの応募に使えた。いや、「使えていた」という方が正しく、いつからかプレゼントの募集はなくなって、貯まる一方になっていたポイントも消えていた。驚くほどの不誠実さだ。

日記が書けなくて、出かけることにした夕方。曇っていたのだから、傘を持っていくべきだった。歩き出して、引き返すのが面倒になった辺りで、雨が降り出した。

濡れながら、改めて心が引いていた。昨日のことだ、ふと、このサイトのサーバーとドメインの更新期限を確認しようと思った。期限は、まだまだ先だった。しかし、一年間で四千円もの金がかかっているという事実を再確認して、著しく機嫌が悪くなった。こんなことをしていて、何になるというのか。何にもなっていないから、毎日書き続けられるほど、暇。うすら寒くなってきた。

やりたいことはあって、東村山の情報をまとめたり、地元で店を開ている人にインタビューしたりしたい。ノウハウはあるのだし、いっそのこと、ここをその場所にしてしまおうか、とも思う。日記なんて、どこでも書けるのだから(さらに言えば、見せなくてもいいし書かなくてもいいのだから)。それに、地域密着型でワンテーマに絞った方が金になりそうだ。儲けるつもりなんて、さらさらない(という態度は取り続けたい)が。

いつまでここに住むのか、住んでいられるのか分からないけれど、住んでいるかぎりは、これぐらいの愛着は持っていたいと思う。やっぱり、この地で働くべきだろうかと、イオンでタウンワークをもらう頃には、全身がかなり濡れていたから、店内に入ることは控えた。誰か雇ってくれないだろうかと、ときどき光る空を見上げる。

雨は強くなっていたけれど、すぐにやむだろうと高を括って安全地帯から出た僕が、他にどんなことを思っていたか、何に注目していたか、告白しなければならないだろうか?雨である。濡れている。すれ違う。つまり、そういうことである。欲というのは、恥ずかしいものだ。とか言っている間に土砂降り。滝行のごとし。証拠写真を撮ろうにも、スマホの画面に付着する水滴のせいで、うまく操作できない。泣ける。

玄関に辿り着いたとき僕は、小学校の頃の、着衣でプールに入る授業を思い出した。シャツが拘束具のようだった。すべての布が、体に張り付いていた。人生を諦めないで、濃い色へと変わってしまったズボンも含め、全部着替えて一息ついたとき、頑張った自分を褒めた。そのようにして生きた。

ブログ「いらけれ」

知らん内に一日が終わっている。知らん内に夏が終わっていく気配だ。一生も、目にも留まらぬ早さで終わってしまうのだろう。学生の頃、バイト先でお世話になっていた同僚のおじさんが亡くなったと聞いた。とても驚くけれど、世界がそのようなものであることは自明で、驚いてもいられない。

(読解力が無くて、誤解力有り余る人々の前に、書いたものを差し出す恐ろしさ【を感じているに違いない。特に、予備知識のいる話を、誰でも読めるところに置かなければならなくなった専門家は】。そして、誤読した人々が、的外れなことを書く恐ろしさ。さらに、その頓珍漢な文章を取り違えて……という恐ろしさ。そんな人々の無遠慮な活動に、日々恐怖している。)

今のインターネットは、言葉があふれ始めた頃の、かつてのインターネットの良いところを取り出して、悪いところを煮詰めたようなインターネットになっているわけだけれども、しかし、この空間が"公道"に近づいて、そこでスピードが出せるようにテクノロジーが進化すれば、あおり運転をしたり、スピード違反を繰り返したりするような輩が登場することなんて、容易に予測できたはずだ。それなのに、まだ年端もいかない子どもたちまで、何の免許もなしに参入できるような設計のままなのだから、問題が起こらないわけがない。こんなところで何か言ったとて、詮無いことだが。

とても最近に、「僕は馬鹿だな」と思ったことだけを覚えていて、でも、そんなことを思ってばかりだから、何が原因でそう思ったのか忘れた。すでに夜だった。ラジオの録音を聞きながら歩いていた。台風は過ぎ去ったけれど、強い風が吹いていた。いつもとルートを変えて、住宅街の中を通っていたのだが、怪しい風体の男は、泥棒にでも勘違いされそうだ。建ち並ぶ家々は、それぞれに個性的で面白い。軒下から垂れている小さな箱型の金属が連なった「何か」が目に入った。それなりに生きてきたから、それを見かけたことはあったけれど、気にしたことはなかったから、名前も用途も分からない(ちなみに、「軒下 垂れている」で検索したところ、「鎖樋」などと呼ばれる雨樋の一種であることが分かった)。「よく見ると面白い形だなあ」なんて不用意に顔を近づけたら、それと同じ茶色をしたカマキリが、一生懸命よじ登っているのに気づいて、「うおっ」と驚いた。なんだこの思い出。

そして、玉虫色の虫が樹液を吸っているが、僕たちは戦わなければならない。過去に学んでいる時間はない、なぜなら、今がすでに、学ぶべき過去と同じ時代だからだ。これからも常に、一人で頑張らなければならない、孤独に。

ブログ「いらけれ」

負けた側からの人生を書いている。記述している。この前、宝くじを当てた人のインタビューを読んだ。宝くじを当てた人は、宝くじを当てただけなのに、話を聞いてもらえる。本当は、何が勝ちなのかとか、そのゲームに参加することが正しいのかといったことについて、書きながら考えを進めていきたいのだが、負けた(と世間で見なされる)人間の言葉は残らないから、残さなければならないという使命感で、そのように書いている。

今月の「デモクラシーカフェ」へと向かうために、家を出て数歩、歩いたところで思い出したのは、着ているポロシャツが裏返しで干されていたことで、首元を触っても裏返しに違いない、これはまずいと、近所のトイレに駆け込んで、焦りながらドアを閉めて、脱いで、それまで聞いていた「米粒写経のガラパゴスイッチ」(絶版図書紹介祭りが面白くて、本当に、アンビバレントな気持ちになる)のイヤホンを外して確認したら、裏返しじゃなかった。まあ良かった、と思いながら、そそくさとトイレを出ようとしたら、ポケットから垂れてしまっていたイヤホンが、ドアの下のところに引っかかって、挟まって、イヤホンの耳に入れる部分が壊れた。こんなピタゴラスイッチ、上手く説明できないよ。

「デモクラシーカフェ」が終わって、もうすぐ野球が始まるから、どこかへ食べに行くのもなあと、でも結局、スーパーを3つ回って、すごい時間がかかった。歩いている間、今回もあまり上手く話せなかったなあと考えていた。本当は色々なことを思っているんだけど、それを誰かに言うのは、とても難しいことだ。そのように感じているのは、おそらく間違いじゃないとしても、その先に行かなければならない。言葉を獲得しよう。
そして結局、一番家に近いところでお弁当を買った。2回表の試合を見ながら飲み始めたクリアアサヒは、大きい缶だと少し余計だった。一緒に買ったアボカドのサラダは、美味しかったなあ。メンチカツと唐揚げ、ひじきと柴漬け、半熟卵が入ったお弁当の名前は「明太弁当」だったけれど、ペースト状の明太子は、ご飯を半分以上覆っていた海苔をめくったら、その下には乗せられていなくて、とても残念。ただ、アボカドのサラダが美味しかったので、すべてを許そうと思えた。

バラエティ番組を見ている。ああ、と思う。人々は、コミュニケーションの襞の内に放り込まれている。余りにも微細な押し引きで、お互いを損ないながら、それによって笑い合う。差別も暴力も、はっきりとそこにある。だが僕は、僕たちが望むべき姿になるためには、こうした辛苦を受け止めて、傷と笑顔の揺らぎの中を進むべきなのだろう、と思う。そこにすべてがあるのだから、そこからしか始まり得ないのだから。