風前の灯火っぽい

ブログ「いらけれ」

言葉として意識したことがなかった「風前の灯火」を、毎日の厳しさ、肩の重さ、マッサージにでも行くべきか、行ったことがないから効果が分からなくて怖い、身体が辛い、しかし気持ちが決まってすっきりした、心が揺れているときの振動がたまらない、行き先を定めなければならない、しかし、先を思えばいつでも不安だ、日記を書いている場合なのだろうか、といった理由で題名にしようと思い、改めて「風前の灯火」という文字の並びを見ると、それは本当に危ないことだ、アニメのオープニングでヒロインの長い髪をなびかせるような風が灯火の前で吹いたら、消えてしまうに違いない、その切実さが胸にきた。

水っぽいカレーのように、記憶は謎っぽい。映画やドラマで、思春期の女の子が父親に悪態をつきながら、それでもリビングのソファーに座っているという紋切り型の表現のように、30歳の手前でクッションを抱いていた。ニュース番組で特集されていたのは、どこかの温泉宿で、そこへ行くためには、大きな川の上空に頼りなくかかっている吊り橋を渡らなければならないという。はしゃぐ人の足踏みで揺れる。兄は、「楽しそう」と言った。
その時、グレーチングから少し緑色を含んだ青と、白波が見えた。恐ろしい、という感情しかなかった。僕たちは橋の上、釣りをするためにそこにいた。戯れにオキアミを落とすと、あっという間に吸い込まれていった。足が、網の隙間より大きいという理由だけで、辛うじて生きているのだと思った。なぜ、こうした構造にしたのかと怒った。そこにいる間、心が落ち着くことはなかった。暑かった覚えがないから、夏ではなかったのかもしれない。僕は小学生だったか、その頃は、それほど遠くまで旅行していないはずだから、おそらく関東近郊だろう。しかし、それがどこだったのか、確かなことは思い出せない。
これが記憶の順番で、あの光景と恐怖から、その時の目的を、それから付随した体験を思い出した。固有名詞はすっかり抜け落ちてしまっていた。しかし、これが記憶のあり方のすべてではないところが肝だ。日光に行ったことだけを覚えている修学旅行もある。こちらは、固有名詞以外を忘れてしまったということだ。その違いに戸惑いながら、やはり記憶は不思議だと思った。

昨日のガムの話は、散歩中に味の無くなったこれを、建築事務所の花壇に埋めたら、土に還るのかなあっていうのが気になって、検索したけどよく分からなかった、分解されるにしても、かなり時間がかかるようだ、ということを書きたくて始めたはずなのに、忘れっぽくて、もう駄目だね。

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤