あらゆるスペースについて

ブログ「いらけれ」

手早くまとめられた日の夕方に出掛けた。目が覚めてからは何もせず、そして、その後も何もしなかった。植物のような生活をマシにしたい。

ガムを噛んでいた。僕の部屋には、二つのボトルガムと、一つのパウチガムがある。一つのボトルガムは、少し前に自分で買ったガムで、残りの二つのガムは、最近商品モニターとして買ったガムだ。口寂しさを紛らわせるために、夕飯の残り物の煮物を一鉢、深夜に食う暮らしを改めたくて買ったガムも、ガムを噛むという習慣がない人間の部屋からは、一生なくなることがない。それなのに増えてしまったガムを消費するために、机の上の財布や鍵の隣に、ガムを設置するようになった。必ずガムを認識するから、ガムを噛んで出る。それも、二種類のガムを口に入れてしまったりして、もぐもぐしている僕は少しだけメジャーリーガーになっている。ガムの効果で飛距離が伸びて、気が大きくなっている。ガムガム言っている文章は、ガムを噛んでいるかのようだ。

足を押し出して、心を引きずって、鞄を背負っていた。表面に貼り付くような冷たさが、上着を通り抜けて身体にくる。駅前に人が居なくて、何があったんだろうと思うが、つまり、暑いと動かなくなるが、寒いと動かないでいられなくなるから、待ち合わせも、時間つぶしもしないということだ。世界の寒さに抗うかのように、人々は動き回り、混ざる。

新しい駐車場に、一台の車が停まっている。ここは、「オープンエンド」を書いときには更地だった場所で、三階建ての駐車場が取り壊された後に、ただの駐車場ができた。しかし、その一角は、一階がドコモショップのビルになったわけで、壊さなければよかったとは思わないが、やっぱり少し不思議な気持ちになる。あの瓦礫の山を見たのは、新春演芸会の帰り道で、つまり1月だったということを思い出す。そして、今は11月の終わりだ。生きている時間においては、一年は長い。でも、振り返る死んだ時間の一年は、とても短いもののように感じる。

言いたいようなことは、本当に、もうないのである。言わなければならないのは、「現実に出る」で"無い"と書いたクロームキャストが、もう一度家電量販店に赴いて、よくよく探したらあった、ということと、「リアリティ・チェック」で"保育園があった"と書いた場所が、コインランドリーになっていたこと、ぐらいだろうか。今どきという感じのコインランドリーはお洒落で、看板に「Laundry Place」とある。シックな内装である。わざわざ信号を待ち、渡って近づくと、求人が貼ってあり、暇な時間に清掃をして、綺麗になった写真を撮って送ればいい、といった内容で、よほど応募してやろうかと思った(※スカウト、オファーお待ちしております)。日は暮れていた。このような生活に、終わりはくるのだろうか。今もまだ、出口を探しているところだ。

今日の抜き書き。

すぐれた小説の場合は、小説の語っている内容とその語り口とが分かちがたく結ばれています。

バルガス=リョサ、木村榮一訳『若い小説家に宛てた手紙』株式会社新潮社、2000年、p.32

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤