すてきな男
どっかの国のアレンジ寿司に、「これは寿司ではない!」と怒る人のなかに、それっぽい衣装とお面で、海外の人が思う日本像みたいなものを嬉々として演じてしまうような心が、矛盾なく同居してるのかなあと、開会式を見ながら思っていた。あと、オリンピックの予行演習的に、どの演出が使えるか試してるのかなあ、だとしたらかなり失礼な話だよなあって思っていた。すべては想像だ。
だから何度も言っているように、すべてはフィクションだから詮索しないでほしいんだけど、いつかどこかで僕は、「女性として傷ついた」という言葉を聞いた。一瞬にして、いろんなことを思ったけれど、そのほとんどを、ここでは一旦置いておこう。僕は、男性として傷ついたことがないと、初めて気がついた(書くことによって初めて、「傷ついた」と「気がついた」が、とても似ていることを知る)のだ。このことについて考えていきたい。
「男って……」的な発言は、僕だって聞いたことがある。けれど、そうした言葉に出会ったときにいつも思うのは、その"男"のなかに、僕は入れてもらえていないということだ。大雑把に、属性について否定的に、そのようにして語られる"男"ではないということ。肉体的にも精神的にもマッチョとは程遠いし、抑圧者となれるような権力もないし(もちろん、対男性と比べて、女性に強く出ている自分を見つけることもあって。飲み会とかで。本当に死んだ方がいいなって思う)。あと、女性から性的な対象と見なされることで、周囲にいる男性も含めて、"男"として認められるという構造も、どうやら現実には存在しているようだが、当然僕は、そのような意味でも"男"ではない。そういうわけで、僕には"男"として傷つく資格がない、って感じがする。
しかし、生まれ持った肉体はどうしても"男"なわけで、夜道を歩いているだけで警戒されたり、近づくだけで怖がられたりして、つまり、誰かにとって僕は、生きているだけで威圧感があり、キモチワルイようなのだ(キモチワルイのは、努力で何とかなるのかもしれない)。そういうわけで僕は、この世界/社会に存在している"男"として、"男"であるだけで抑圧側であるといった言葉や、"男"であるだけで下駄を履かされている(実際そうだろう)といった批判に、傷つかなければならないようだ、本当は。これは厳しいなと、辛いなと、魂に冷たい風が吹いた。(ちょっと別の話。いつかどこかで、人を傷つけるような発言を許容するべきかと議論になった。しかし例えば、こうした批判にさらされても何とも思わない人が、正しく"男"なのだとしたら、傷つかないことと傷つけないことが、非倫理的な態度なのではないかと考えた。考えた僕は傷ついて、いわゆる"男"は、お構いなしにずんずん行くから悲しい)
長くなったから、また明日ね。そうやって、誰かと指切りした数と、約束を裏切った数と裏切られた数を、目を閉じて羊のように数えていれば、その内ぐっすり眠ってしまうだろう。
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