日々を、矯めるように

ブログ「いらけれ」

日常に対する吐き気のようなものがあって、辛いので眠る。液の切れた芳香剤がそのままになった部屋。心の重たさがのしかかって、水分が抜けて固くなる。何かを考えることもできない。考えたってしょうがないのかもしれない。増水していた川には、草が千切れて、あるところでは流れて、あるところで溜まっていた。そして、すべてが飲み込まれていった。世界はあれと同じだ。川に流されている。

この後、どうにかして希望につなげていくのか。そうしようと思っているのか。最後には救われるのか。分かり切っていることが嫌いだ。安全であることに腹が立つ。

これは安全な物語。安全な物語だと分かって見る物語。絶対に、登場する犬が死なない映画。『フランダースの犬』ではない。それは、ネタバレではないのだろうか。物語のなかで、自分にとってショックな出来事が起きないことは保証してほしいが、ネタバレはされたくない。そして、伏線は回収してほしい。回収されると分かっている伏線は、もう伏してはいないのではないか。傷つきたくないのならば、小説や映画、ゲームといったものに、触れなければ良いのではないだろうか。幸福だけを得たいというのは、虫が良すぎるのではないか。悲劇の起きない人生はない。犬が死なないように選んだ映画では死なない犬も、現実では、いつか必ず死ぬ。
いつか必ず、これは大きな問題になる。実際に、大学の講義で見せられたスライドが、映像が不快だと苦情を言われた、といったような話題を、時折ツイッターで見かけるようになった。講義ならばまだ、事前に説明することもできる。もちろん、そのように”心の準備”をさせてしまうことによって、失われるものもあるだろうが。衝撃を受けないということは、印象に残らないということでもあるのだから。例えば、幼少期に見せられた『はだしのゲン』によって、戦争というものは避けなければならないのだと知った人も多かろう。それでも、「子どもに見せるな」と言うべきなのか。誰も傷つけないために。
小説を読む読者は、どこまで同意していると言えるのだろうか。登場人物へ、思い入れを抱いてもらえるように、丁寧に描写し、家族を作らせ、幸福な日常を送らせた後に、とてもくだらない動機を持った犯人に殺させる。とても許し難い、作者による非倫理的な振る舞いは同時に、物語の源泉でもある。読者が憎むように、登場人物が、例えば殺された人物の子どもが、恨みを持つことによって、物語が動いていく。だからすべてを許せというのか?何をしたって良いのか?ショックで夜も眠れないんですけど?……うーん。

やっぱりむかつくな、胸が。

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤