定められた失敗

ブログ「いらけれ」

どうして、こうも上手く書けないのだろうと、そう思えているから、まだ書いていられる。理想がはるか遠くに見えて、それに漸近したい私がいる。

紅白を見てたんです。僕も、人並みに。それで、ツイッターを開いて、すごい速さで流れていくタイムラインを見ながら、すごく大事なことに気付いたんです。あの、問題は速度なのであって、つまり、こういうときこそ、目を見て話すような態度で、言葉は使うべきなのだって。だから、大切な人には直接に、感謝や思いを伝えました。混迷の現代では、天邪鬼に生きるぐらいが、ちょうどいいのかもしれませんね。あらやだ、いい人みたいで、なんか嫌だ。

今年こそはやるぞって毎年思っている。思っているだけで、毎年のようにダラダラと、寝正月で終わってしまうのがオチで、だから何もせずに眠っていたら、姉貴の子どもたちの笑い声で起こされた。ぼんやりとした意識の中で、漏れてくる幸せそうな声を聴くのは悪くなかった。僕は、今年もお年玉をあげることすらできないおじさんで、でも、元気そうで良かった。
家族というものに対して、それは、僕の家族ということではなくて、「家族」という概念、抽象的なイメージとしての「家族」について、僕は、どういう態度を取るか決めかねている。良い面も悪い面もあるし、しかし、それで人類が続いてきたところもあって、でも、僕には人類がこれからも続いていくかどうかとか関係ないし、だから、自分がこれから新しい家族を作るのか、作れるのかどうかも、作ることを目指すのかどうかも分からないし、そもそも、「家族」という概念のなかにある大きな秘密について、あるいは謎について、考えたこともないわけだから。僕も、子を持ったりするのだろうか?そんなSFみたいなことってありえるのか?

『佐藤大のプラマイゼロ』の「#114 ツヅキのタヨリ」を聞いた。現実には存在しない、バーチャルなファッションブランドの話が面白い。確かに、SNSの価値が上がりすぎている今は、本当に服を着る、それがオシャレで機能的だ、物を食べる、それが美味しいといったことより、それを写真に撮ってアップして、「いいね」されることの方を大事に思う人が増えているわけで、自分の欲望が、他人から「いいね」されるものになっていくという事態は起きているだろう。
ただ、この話が本当に面白いのはこの先で、少し前の流行った「動物化」の議論では、人間は、動物の欠乏ー満足の回路(欲求)だけではなく、他者を必要とする欲望を持っているはずなのに、現代ではそういった構造が消え、他者を介在することなく欲求が満たされるような環境が整備されることによって、「動物化」しているという話だったはずだ。
しかし、ポストモダンの「動物化」の先には、人々がより欲望的なもの、つまり、他者を求めるようになる現実があったということで、これはどういうことなのかについては、誰か批評家か思想家が、頑張って考えてほしいと思います。以上。

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤