inhumanity

ブログ「いらけれ」

5月という怪物をやり過ごした僕が、ほっと一息ついた6月に、まさかこんなことになるなんて、ラスボスを倒したと思ったら、さらに強い真のラスボスが出てきたみたいな、まだうまく書けないけれど、そんな感じだ。映画のような日々に放り込まれて、仕方なく真面目な顔をしている自分が滑稽でたまらない。とはいえ、答え合わせまでは少し時間があるようだから、僕は最善を探しながら暮らしている。すべてが終わったら、僕はなにを、どう書くのだろう?

それでも私は、笑顔で生活しています。あのときの私と、同一人物とは思えないぐらいに、不思議と元気なんだぜ。「マジで死んじゃうんじゃないかなー」という出来事を越えて、ちょっぴり強くなれたのかしら。たぶんこうやって、実生活では全然傷つかなくなって、でも、安直なフィクションですぐに泣いてしまうのが、大人になるということなのでしょうね。それはきっと、世界の実相のしょっぱさを知って、願いや望みを持たなくなる、ということでもあるのでしょうね。普段は諦めてるから大丈夫なんだけど、捨ててしまった理想をそこに見るから、映画のワンシーンで涙したり。

麻雀と野球が始まったから、僕も生きている気がしてきて、ベッドに横たわりながら、人と人が出会うことの意味を考えていた。いずれ会わなくなってしまうなら、初めから出会わなければよかったのか。受け入れられないことが多すぎて、心がじくじくしていた。
部屋を出たところに、花瓶に色とりどりの花が挿してあって、なんだか複雑な気分で、まるで幸福みたいだと思う。リビングに置きっぱなしのバナナに、黒い斑点が出始めている。それを切って、食パンに乗せて、シナモンとハチミツをかけて、バナナトーストにする。おいしかったけれど、料理はもっとできるようにならないと。
劇的な変化に立ち会える夕方の空気感が好きだ。サンダル越しの風が涼しい。でも、この黒いゴムに無数の穴が空いているみたいなサンダルは、砂利道の小石が侵入してきて、そして出せないから、新しい靴を買おう。いつもの道は、集まってスケートボードに乗っているから、別ルートを歩こう。この数日で、お墓の見え方も変わってしまった。お墓はひとつも変わっていないのに。お墓の向こうの空がとても綺麗だ。青が深くなった空の、高いところにある薄い雲に夕日が当たって、オレンジ色が混じっている。低いところにある雲は分厚く、夏の形をしている。僕は思い出について考えてみる。この日のことを覚えていたとしても、この空の色や雲の形を、その通りに記憶している、というわけではない。記憶が思い出になるためには、こういう抽象性が必要なのかもしれない。
その空は小学生のころの、手当り次第パレットの上に出した絵の具で、それを大きくて白い紙に、適当に塗ったときの美しさで、誰かに絵を描かされる前の僕が、絵を描くことが好きだったのは、ただ混じる色と色に感動すればよかったからだ。神様の絵の具遊びで、そんな思い出が蘇った。

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤