〈勇気〉
現代日本社会に生きる人々は言葉を略すのが大好きなのに、ソーシャルディスタンスは一向に短くならないなって思っていたんだけど、家から出た一歩目で、「ああそうか、密があるからか」と閃く。
もう心のことで悩んだり苦しんだりしたくないと思いながら下を向いて歩いていると、砂利道には石のような材質で作られたマンホールのような何かが目に入り、この下には何があるのだろうと考えながら上を向くと、遠くにあるごみ処理施設の塔が見え、僕は今、テッド・チャン『あなたの人生の物語』を読んでいるから、「バビロンの塔って、あんな感じかな」と思う。
散歩の舞台は大きな霊園で、19時を過ぎたにもかかわらず明るい空の下には、しかし、ほとんど他者はおらず、自分ひとりの世界が出来ている。そこで考え事をしているのは、あの巨躯のカラスと僕だけで、そこで本当に生きているのは、あの一際背の高い木だけといった感じだ。生きてもいないのに、死んだらどうなるんだろうね。とりあえず墓に入ったりするのだろう。人間たちの墓は大きさがまちまちで、立派なものもあれば、みすぼらしいものもあって、「結局、死んでも資本主義なんだな」と悲しくなる。
紫陽花だけが綺麗な6月も、もうすぐ終わりだ。川沿いの団地の、ごみ捨て場の裏の1畳ほどのスペースに咲く、雑に植えられたとしか思えない紫陽花でさえ綺麗だ。捨てられているみたいな紫陽花でも綺麗なのは、花の量によるものだと思う。とにかくたくさん咲く。その物量に、人間たちは圧倒されてきたのだろうと、桜を見ても同じことを思う。そんなことを話した中学の同級生が、3年前に死んでしまったことを思い出したそのとき、僕は立ち上がれなくなる。
バス停の前のベンチに座って、平熱に戻るのを待っていた間、バスは一本も来なかった。日記はフィギュアで、小説はプラモデルだった。文章によって、ある過去の一点を冷凍保存し、書き表されたその場面に読者を立ち会わせるのが日記だとしたら、不完全な記述の積み重ねによって、本来はある出来事を経験しなければ得られないはずの感覚を読者に、読者のなかに組み立てさせるのが小説だった。そんなことが分かっても、何を書けば良いのか分からなかった。だから、日記とも小説ともつかない文章を、こうして書いている。
ささいな勇気が新しい地平を開いてしまったから、このように記録でも作り事でもない文章が、この先も書かれていくだろう。それで良かったのだと自分を納得させた頃には、辺りはすっかり暗くなっている。
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