bloodstream

ブログ「いらけれ」

 ウルトラマンみたいな名前の「選択的セロトニン再取り込み阻害薬」は、血中濃度半減期が約23~24時間だというから、私は酒を飲むことができないし、眠ることもできないのは、脳を覚醒させる作用があるからだという。覚醒した脳で私が、道に足を踏み出してもマットの上のように、ふわふわと柔らかい。
 それでも朝は、朝とは言っても、もう10時を過ぎているが、風が新鮮な感じがして、とても心地よい。少しだけだが、ラジオも聞くことができた。最近では、音楽だって聞けなかったというのにである。それでも、ときどき考えごとが始まってしまうと、頭の奥の痛みがぶり返す。それを押し返すために、ちぎれた雲と青い空を見る。この顔を、太陽に当てる。高橋徹也の『怪物』というアルバムを買って、その一曲目「怪物」の歌詞には、「まるで容赦のない世界だって ないよりましさ いつだって」とあった。そう思わないと、川にかかるこの橋でさえ、無事に渡り切ることはできないと、そう思った。だから、好きな人を好きでいることも嫌いな人を嫌いでいることも、とても楽だから皆そうする。好きになったのも嫌いになったのも、とても曖昧な理由だったというのに、好きな人を嫌いになったり、嫌いな人を好きなったりするには、莫大なエネルギーが必要で、そうやって心が動くと消耗してしまうから、好きな人の嫌いなところや、嫌いな人の好きなところに目をつぶる。それどころか、積極的に見て見ぬ振りをしたりする。
 遠くからは、その木の根本にシロツメクサが咲いているように見え、近づいていってそれが、その木に咲いている白い花が、辺り一面に落ちたものだと分かった。開かされた私の目に、直視せざるをえない現実が飛び込んできて、涙がこぼれた。痛みは具体的で、悲しみは抽象的だが、その二つが手を組んでいた。
 新たな生活を整えないかぎり、この苦しみからは逃れられないのだろう。死ぬことすら、かすり傷なのかもしれないと、数え切れないほどの墓石を見ながら思った。傷ついた人も、傷つけた人も皆死んだ。それが救いなのかどうかも分からないまま、時間は11時になっていた。誰もいない通路で、木の枝を一つ蹴った。人生も感情も、愛も期待も何もかも、減るものではないなんて、そんなわけないのだから、大切にする人を間違えてはいけないのだ。その時、さっと吹いた風が身体を通り抜けて、あれだけあった絶望を、一つ残らず持っていった。5月も、あと少しで終わりだなと思った。

ブログ「いらけれ」

Posted by 後藤