生きたほうがマシ 3
たとえば今、私が政治を語ろう、政治について語ろうとするときに、私が正しいと信じ切ることのできる後ろ盾のような、なにかを携えないで、なにかを語ることができるだろうかと考えたとき、それは無理だろうと思う。自分は自分しか知らないから、自分が一番正しいと思って発言するのは普通のことだし、それが当然だとも思うけれど、そうやって正しさを根拠になにかを言う私が、本当に正しいのかどうか、そこからしてまず自信がないし、その自信のなさを覆い隠すように、自信を持って言う私の言葉には、どこかに無理があるだろう。無理から生まれた言葉というのはえてしえ、ある種の強度を持つから、同じような正しさを信じる人にはうなずいてもらえるかもしれないけれど、絶対に分かり合えないような人からは、むしろ遠ざけれられてしまうのではないか。これまでもずっと間に立つ人生だったし、私はそれが得意だからそうしてきたのだし、強固な信念を持って生きるのではなく、柔らかい人柄の良さで誰かと誰かをつなげるのも、一つの役割だと思うし。保坂和志『いつまでも考える、ひたすら考える』の文庫版の130pには、
芸術の強さと普遍性はその弱さと特殊性にある
って書いてあります。強いから良いとか、正しいから正しいみたいな価値観では、見落としてしまうものを見逃さないように、下ばかり向いて生きているのかもしれない。
こんな風に思えるようになったのは、ごくごく最近のことだから、真面目な人間みたいに思われるとむずがゆいけれど、真面目な人間も悪くないというか、あの頃の僕は、深夜ラジオに救われた側の人間だったけれど、それが結局は邪魔していたと思うことも多くて、一概にいえないけれど、やっぱり人間関係が上手く作れないのは、人間関係を上手く作れる人に対するやっかみ、ねたみそねみで生きてきたのも大きいよねと、今の私は思う。あいつらは馬鹿だ駄目だと思ってしまったばっかりに、あいつらのようになれない、そればかりか、少し自分に優しくしてくれる人に対して、「どうせ最後は宗教に勧誘されるんだろう」と疑ってしまう。
だから、あの頃の僕の居場所ではあったけれど、でも、そんな居場所ではなくて、もっと人間らしい居場所があったら良かったのにという思いが、私には少なからずある。あの頃隣にいたヤンキーの子たちが、その後どうなったのかは分からないけれど、先輩たちに教えられた悪事をこなす彼らを馬鹿にしていた僕も、サブカル先輩に教えられた卑屈さで、結局生きづらさを抱えて生きてきたわけだから。私は、愚かなループは断ちたいです。もう21世紀なのだから。
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