ブログ「いらけれ」

プロレス(NXT)の話。ジ・アンディスピューテッド・エラの「人を小物化してしまう磁場」はすごい(あのロデリック・ストロングさんですら)。そして小物なのに、コント(ユーモア)と格闘技(色気)を共存させている。素晴らしい。素晴らしいのは確かなのだが、いかんせんサイズが。プロレスにおいてサイズというのは"特別な問題"であり、ユニット内で、205(クルーザー級の番組。番組名は205ポンドというクルーザー級のウエイトのリミットから)にも出場していたストロングが小柄に見えないことは、ヒールユニットとして上で活躍することの難しさを感じさせる。だからこそ、NXTの今が、途轍もなく輝いてみえるのだ。

いつかのコラムのためのその四。「透明雜誌の透明ディスク(第4回)」より引用。

ブラックは僕に創作とは何か、そして〈わがままさ〉の必要性を教えてくれた。
もちろんそのわがままを受け入れて好きになってもらうのはとても難しいことだけれど、彼を含むピクシーズのメンバーたちはそれを見事にやってのけたうえ、その後25年に渡って数多くのバンドに影響を与え続けている。

求められること(誰かがやってほしいと思っていること)ではなく、やりたいことをやること。表現者には、そうあってほしいと思う人は、今では少数派なのかもしれない。「あの売れた○○みたいな曲/小説/映画/アニメ……を」と要求されることも多いだろうし、それは「あの好きな○○に似た曲/小説/映画/アニメ……を」って思う人が多いからだろう。そうじゃない考え方をする人が増えてほしいと思う。

大学二年生の午後だった。ドイツ語はメキメキ上達し、特別クラスにいた。気位の高そうな教員が教えていた。その日の予定まで教科書は進んだが、時間は余っていた。そういうときはいつも、ドイツ文化の講義が始まった。今日は文学だった。ある日は、ドイツの教育サイトを勧めていた。また別の日は、日本のマンガ(NANA)がドイツ語に翻訳されているだとか、ヴィジュアル系が人気だとか、NHKのドイツ語講座を見ながら、トリンドル玲奈は良いだとか言っていた。まず『メフィスト』からだった。ゲーテの偉大さについて、それから『若きウェルテルの悩み』に移っていった。そこでチャイムがなった。
その昔『若きウェルテルの悩み』を読んで自殺する若者が多発し、自殺がブームになったらしい。都市伝説のように「聞いたら死にたくなる曲」があるというのは聞いたことがあったけど、読んだら死にたくなる小説なんてあるのかと思った。もちろん小説だけが原因じゃないだろうし、ブームになった後は、読まずに自殺した人もいただろう。
『ボウリング・フォー・コロンバイン』で殊勝なことを言うマリリン・マンソンを見るのはもう少し後だった。ラジオでFPSゲームと殺人には関係がないとパーソナリティーが力説しているのを聞くのはもっと後。「犯人の家にアニメのDVDやマンガが~」という報道するメディアがバッシングされる光景はずっと前から見ていた。
「この通り魔事件が起こった原因は、昨日犯人が食べたハンバーガーだ、ハンバーガーのせいだ」というのは馬鹿らしい。では、趣味はどうか。音楽は、映画は、ドラマは、ドキュメンタリーはどうか。犯人がそれを好きだといって、絶対に"全てそれのせい"ではない。でも、犯人の親や仕事、生活環境が事件に関係があると考えるのならば……。
人に、何がどう影響するのか、それは単純ではない。どんなものでも勝手に感化される人がいる。路傍の石を見て、夕方の山を見て神のお告げを聞く人がいるように。でも、自殺の話(小説、報道)は、自殺に"近いらしい"。
ほとんどの人がほとんどの場合、悪い方には影響を受けずに人生を終えるから、自分の好きなものをやり玉に挙げられると反感を覚える。僕だって「プロパガンダやジェノサイドにラジオが使われた、だからラジオは悪だ」とか言われたら怒るだろうし、「プオタは犯罪者予備軍」とか根拠なく言われたらキレるだろう。
何事にもポジティブサイドとネガティブサイドがあり、だから悪い方に感化されない人を作っていくことが大事だ、といっても、その方法は分からない。

参考になったもの:「ロシアの自殺ゲーム「Blue Whale」の衝撃 井上明人×高橋ミレイ対談 (前編後編)」

「ボイスメモを公開する。」の第一回。末永く続くよう、応援してくださいー(まだ更新頻度すら決めてないのは内緒だ)。

ブログ「いらけれ」

【音声配信】「建国70年のイスラエルはどこへ向かう?」立山良司×高橋宗男×松本佐保×荻上チキ▼2018年5月16日放送分(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」22時~)
イスラエルは攻撃すると「100倍返し」してくるらしい。そういえば「倍返しだ」というのが決め台詞のドラマがあったなあ。あとそれが、イスラエルが(周りと比べて)国として小さく、人口が少ないことに起因している(全面戦争を避けるため、攻撃をされたら100倍返しをして、軍事拠点を潰すとともに、精神的なダメージを与え、しばらくの間の抑止効果を得るため)というので、「粋な夜電波」で菊地成孔氏が語っていた短躯のバイタリティ、「デカい奴、阿部寛(いい人だけど)をぶん殴ってやるという気分」を思い出した。不謹慎だろうか。
こういう連想はすべきではないのか。そもそも、アメリカの大統領になったところで、解決どころか解決に近づくことすらできないのに、アメリカの大統領ですらない奴が、知ったところでどうなるっていうんだ。背景を丁寧に解説されたからといって、これだけの惨い出来事を、物分かりよく、分かってたまるか。とにかく、惨い出来事は言葉を刈り取っていく、そのことに憤怒している。

深夜ラジオやバラエティ番組、お笑いライブ、落語とかが、差別やハラスメントの温床であることは間違いないと思う、それを分かっていてなお、それを好きな自分はどうしたらいいのだろうと思っている。

いつかのコラムのためのその三。「透明雜誌の透明ディスク(第3回)」より引用。

透明雑誌のデビュー・アルバム〈僕たちのソウルミュージック〉に収録されているヒップホップ・テイストの楽曲“Illmaga”。たくさんの人にこのタイトルの意味を訊かれるんだけど、実はこれ、ナズが94年にリリースした名盤『Illmatic』を真似て、〈Ill〉にMagazineの〈Maga〉を足しただけなんだ。

資料的価値のあるコメント。透明雑誌の曲のタイトルの元ネタが、まさかNASとはね。

もちろん20年前はまだこんな言い方はされてなかったけれど、いま聴いてもこのアルバムはとても〈Swag〉な作品だ。“Represent”のPVのなかで、ナズと彼の仲間たちがNYのハーレムやクイーンズ、ブルックリン、ブロンクスなどの街頭で〈Represent Y’all! Represent!〉と叫ぶシーンは何度観てもヤバすぎるよ!

意味知らないけどなんかスワッグ@「Local Distance」じゃないけど、スワッグ(swag)の意味は難しい。同じことは、レペゼン(represent)についても言える。しかし、洪申豪にとってhiphopが重要な要素であるのは間違いないらしい。

洪申豪 “bored"

東村山市研究①:東村山市立大岱小学校と東京都立東村山高等学校、いなげや東村山市役所前店を結んだ三角形の中(とその付近)に、五つの公園がある。グーグルマップの、小さく緑に塗られた場所がそうだ。また、もう少し西(左)に地図を移動すると、東村山税務署がある。そのそばにも公園があるようだ。この辺りに三十年住んでいるが、知らなかった。今回はこれを巡ってみる。
駅から出発し、空堀川にそって北上する。小学校付近に到着するころには、歩数は二千歩を越えている。地図を頼りに、まず一つ目の公園(「恩多町4丁目第三仲よし広場」と看板に書いてある)に到着した。小さな階段を登る。開けた場所は狭い。民家が後ろにあるせいで、人の家の庭にお邪魔しているような気分になる。落ち着かない。申し訳程度の遊具と椅子。座る気にはなれない。上がって初めて、向こうの袋小路に続く通路があることに気付く。どん突きに開いた風穴のようになっている。袋小路から広い道路へ出て、次の公園へ向かう。そこから少し北へ行けばいい。
恩多町4丁目第4仲よし広場は、コの字に家々が連なっている、そのコの角にある。小さくて色とりどりの丸い椅子と、滑り台がある。ここは少し高く、果樹園が見渡せる場所にある。とても眺めがいい。住宅街の奥にあるとは思えない。驚きを覚える。

ブログ「いらけれ」

トークショーの質問コーナーで自説を滔々と語りだす人について、それについてのブルース。いつか作詞したい。

いつかのコラムのためのその二。「透明雜誌の透明ディスク(第2回)」より引用。

プロミス・リングはキャップン・ジャズのギタリスト=デイヴィ・ヴォン・ボーレンのバンド。
彼の歌声は絶対的な美声という類ではないし、時にハスキー・ヴォイスでピッチもそれほど正確ではないが、彼は間違いなく曲作りの天才だ!
初めてプロミス・リングのアルバム『30° Everywhere』に収録されている“A Picture Postcard”を聴いた時、まさに思春期で蒼かった僕は、歌が始まる3秒前のギターのハーモニクス(倍音)でこのバンドが好きになった。
当時、僕はいつもCDプレイヤーを持って一人浜辺に行き、この曲を日が昇るまでリピートして聴いていたのを覚えている――本当に〈青春〉していたんだ。

「イヤホンをして夜明け前に見る海」が想像できるこの訳文が、すごく好きだ。夜明け前の海は、僕たちに〈青春〉を思い出させる。想像は、僕たちが本当に〈青春〉していたこと、そして、僕たちが、あの〈青春〉から離れてしまっていることを痛感させる。でも、この僕たちの人生に「本当の〈青春〉」なんてなくて、僕たちは「本当に〈青春〉すること」しかできない。だから僕たちは、あの頃の〈青春〉を思い出すだけではなく、いつだって、これから〈青春〉することだって、できるのさ。

青春について書くつもりなんてなかった。誰も一人で書くことはできない。文章や音楽に触発されながら書いていて、すごくそう思った。考えることも、書くことも、何かしらの影響を、何かから受けている。それは良いことだと思う。一人じゃ思いつかなかったようなことが書けるってことだから。

『交響詩篇エウレカセブン』とリブートするコンテンツ 佐藤大インタビュー

ただ、新しいシステムを模索して成功例を生む前に、システムの外でつくられた『君の名は。』(2016)のようなオリジナル作品がドカンと当たると、みんなの気持ちが揺らぐ(笑)。

「佐藤大のプラマイゼロ」を聞いている人にとっては、目新しさはないというか、大さんらしいなーと思うだろう。でも、文字として読まれるようにしておくのは大事ですし、インタビュアーさやわかさんだし。
メディア状況によって、人間の考え方が変わってきているから、コンテンツに対しての向かい合い方が変わってきている(ライブ感のあるものがお金になる)。もう一方で、ビジネスモデルの変容も起きていて(起こさざるを得なくて)、コンテンツ制作も従来通りではいかなくなった、という内容。アニメーションだけでなく芸術一般、それがお金稼ぎでもあるという事実が厳然と存在しているので、難しいところだ。ただ「個人的にはこのままの路線を掘り続けるとまずいという感覚が、すごくあります。」という、大さんの憂慮はもっともだと思っている(ぼくは、ただの受け手でしかないけど)。

たぶん鴨が二匹いる。久米川ボウルの脇を流れていく野火止用水は意外ときれいだ。草が道路にはみ出している。ゴミ袋が捨ててあって、流れずにいる。掛かっている小さな橋の、下の構造が眼鏡橋のようになっていることに気付く。橋の下に鴨がいる。くちばしと足がオレンジ色をしている。どんな色か、例え様がない。鴨のオレンジだ。

曲のよさは、減衰しにくい。曲は現在と結びつき、いずれもう一度聞く時、過去を思い出すからだろう。つまり、人生の”BGM”として、記憶になるということだ。では、現在と結びつき、いずれ記憶になる文章とは、どのようなものか。音楽のように読み返せる文章とは。

ブログ「いらけれ」

いつかのコラムのためのその一。「透明雜誌の透明ディスク(第1回)」より引用。

その後エレキ・ギターのサウンドにどんどんハマっていった僕の生活は音楽一色になり、スーパーチャンクの『Slack Motherfucker』が毎朝のテーマソングとなった。僕は片時もイヤフォンを離さず、音量をMAXにして自分自身と外の世界とを隔離していた。
こんなふうに没頭するのは子供っぽいと言われてしまうかもしれないけれど、当時の僕にとってはとても楽しい時間だった。

イヤホンやヘッドホン、イヤーマフを使うことが「自分を世界から隔離する」のだとしたら、アイマスクを使うことは「世界から自分が隔離される」行為ではないか。耳を塞ぐことは、(感覚を)コントロールすることを意味するが、目を塞ぐことは、(状況の)コントロールを放棄することを意味する。耳を塞いで「聞こえな~い」は、相手を馬鹿にしているが、目を塞いで「見えな~い」とするのは、その者が馬鹿である。

承前)文体について、高橋源一郎氏の話は、では自分の文体を持たないためにどうするか、その方法は「書かない(ずっと書かないでいると書き方を忘れるから)」という方向に行く。言葉の、それ自体の運動性というのは避けがたく存在す、確かに、それに頼ることに問題があるのは間違いないとして、もう書き始めてしまった文体をつくらないように書きたい人はどうしたらいいんだろう。

「絶対的な正しさ」が、それぞれの立場に裂けた後、「絶対的な誤り」だけが残った(という感じだ)。イデオロギーは脇に置き、非人道的な行いや、差別、不正、文書改竄などを指摘する。「これこそが正しい」と言えない人々の、「少なくとも、これは間違っている」という叫び。

【音声配信】「本格的な登山シーズン到来!改めて考える山のリスクマネジメント」羽根田治×荻上チキ▼2018年5月15日(火)放送分(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」22時~)
都立東村山中央公園付近で、変な顔をして歩いていた奴がいたとしたら、それは僕だ。変な顔を具体的に言えば、目を見開いたり、舌を出したりという具合だ。それは、この特集を聞いていたからだ。タイトルから想像していなかったが、事例の紹介として、ある家族(さなえ、母、妹、父方の祖父)がハイキングを計画するところから朗読は始まる。神奈川県の丹沢・大山に登った彼女たちは、休日の一日を楽しく過ごしていた。中央公園のあざやかな緑は、僕を物語の中へ没入させた。しかし、下山に取り掛かったところで、雲行きは少しずつ怪しくなっていく。荻上チキさんは、のどかだった朗読が段々と状況が悪化していく、「かまいたちの夜」を読んでいるようだと言う。僕は分かるよと思う。ストーリーは進み、日帰りだったはずが、ビバークを余儀なくされ、翌日も帰ることが出来ずに、また次の夜、次の夜……。南部広美さんの朗読も相まって、ずっしりと重い恐怖と焦燥が、ダイレクトに伝わってくる。溢れ出る涙、祖父の見る幻覚、通り過ぎるヘリコプター。もう心がどうかしてしまって、僕は普通の顔を保てない。彼女たちはどうなってしまうのか……それは聞いてのお楽しみだ!

空堀川沿いの道と、都立東村山中央公園を繋ぐ住宅街の中の一軒、その家の郵便受けの投函口に付いている蓋には「配達ごくろうさまです♪」と書かれたシールが貼ってある。二度と会わないどころか、一生の中で一度も顔を合わせないかもしれない誰かを思いやる人が、少なくとも一人、ここに住んでいた。

小説以前の、小説になる前の、小説とはとてもいえないものは、嘘と呼ぶしかなく、だから僕は嘘を書いている(嘘は何を描いている?)。もし、書かれていることの全てが本当だと思っている人がいたら、それはそれで、かまわない。僕はずっと、嘘を書いていくつもりでいる。