ブログ「いらけれ」

「M-1グランプリ」を見ていた。本当に年末なんだなあって思う。全然、そんな感じしないけどね。子どもの頃は、M-1つったら、テレビにかじりついて見るもので、熱中、没入しながら、真剣に分析するものだった。あの「お笑いコンテスト番組」に対する熱、それが『東京ポッド許可局』に出会うことにつながった(TBSラジオで番組になる前、ポッドキャストだった時代に、M-1の感想を三人で語り合う特番をやっていて、一人で考察しながら、悶々としていたときに、誰かの意見が聞きたくて、検索で見つけたのだった)わけで、兄弟の影響で「お笑い」の英才教育を受けていた僕は、同世代よりも早く、『爆笑オンエアバトル』のチャンピオン大会を、深い時間を無理して起きて見たりとか、あの頃は、もしかしたらプレイヤーとして向こう側に立てるかもしれないという可能性を見ていたのかもしれず、とにかく「テレビでやっているお笑いのネタ番組」には、並々ならぬ思い入れで未定て、今ではその頃の僕のように、お笑いに熱を持って、ツイッターにコメントをつぶやいている人を見ると、自分の冷めた気持ちを確認する。そういう人を否定しているわけではなくて、自分が年を取って変わったということ、自分にもっと好きなことや熱中するものがあるということなのだろう。ただ、見たら見たで、やっぱり楽しくて、普通に笑って、普通にネタの途中で他の番組に変えたり、スマホをいじったりしていた。細かい分析や考察もしないで、点数の予想や、審査員への批評もしないで、解像度の粗いまま、いいお客さんとして声出して笑っていた。「お笑い」というものへの幻想がなくなり、距離が取れたことで、肩の力が抜けて、いい感じだ。これがベストな付き合い方なのかもしれない。

片方の親指と人差し指の指先だけ、色が変わっていて、スマホが操作できるという手袋を、100円ショップで買った。まず、色が違わない手袋を作ってほしいし、高くなってしまうのかもしれないけれど、その指先の素材だけで作られた手袋がほしい。あと、これを書いているときに、久しぶりに「デジャヴュ」が来た。こんなつまんないこと、俺、もうすでに書いてんの?

ずっと気になっているのが、「私たちの世代は~」「男としては~」と、言いたいことを別の何かに代表させて言うか、あるいは、「これは私の好みなんですけど~」と先回りして、ツッコミや反論を封じてから何かを言うか、人々がこういう話し方をするようになっていて、やはりみんな責任を取りたくなかったり、反論されたくなかったりするのだろう。とかいって、僕もこういう手法を取ってしまうことがあって、だからこそ、「私は、これこれこうだから、こう思います」と、逃げずに話していきたいなと思う。


GRAPEVINE – Alright (Music Video)

ブログ「いらけれ」

昨日のブログは、ひとつ自分にとって革命的だったというか、肩の荷が下りたという感覚があって、つまり、あのように書いてもいいのだということ、それを自分が許すのだということがが分かった。そのことが大きかった。必ずしも、もう、何か意味のあることや意見を開陳したりしなくてもよいのだ、という解放だ。少し頑張りすぎていた。頑張るならもっと、自分が読みたいもの、聞きたいもの、見たいものを摂取するために頑張るべきだ。だから、青椒肉絲のピーマンの鮮やかな緑と、崎陽軒のシウマイが歯に当たったときの弾力などと、無意味な文章を書き連ねてもいいわけであって、そしてそれを、自分が許可する。

『熱量と文字数』の300回特集を聞いていて、大切だと思ったのは、自分の知らないこと、自分と違うことを聞きたいという、サンキュータツオさんの発言だった。まったく同感だ。その思いを共有できていて、共振しているから、アニメを見ていなくても僕は、ずっとこの番組を聞けているのだろう。でも、今は自分が聞きたいことを聞きたい人の方が多いから、ほとんどのものが(僕にとって)面白くないのだと思う。

ずっと歩いていなかった道、大きな幹線道路沿いの道を通って、ぐるっとプロサッカークラブのグラウンドを回って、戻ってくるというルートを、久しぶりに歩いてみる。働き始める前に、よく歩いていた道。半年ぶりぐらいに、そのルートを通ってみる。自分の中に、特別な思いが浮かぶことや、新しいフィーリングが感じられるといったことがあるかと思ったが、特になかった。でも、ぐるっと回るところ、その曲がり角にあったコンビニエンスストア、セブンイレブンの向きが変わっていてビックリした。コンビニの向きが変わっていたというのは、こう、歩いているところを想像してほしいのだが、視界の左側の生け垣が途切れると、駐車場があって、開けて、交差点になっている角に、こちら向きにコンビニが"あった"。それが、コンビニがあったところが駐車場になっていて、一つ奥の土地に新しく作られたコンビニが、歩いている道路と交差する大きな道路に向いている。なぜ、こんなんことを詳しく書いているかというと、僕がそれを見たとき、本当に、心底驚いたからだ。

先週の『深夜の馬鹿力』を聞いていて疑問に思ったのは、サンタクロースって、なんで子どもに信じさせることになってるんだろうということ。これは、自分に子どもがいないから分からないのだろうか。そもそも、いつまでサンタ信じてたっけなあ。いつかは信じていたけれど、すぐにいない派に転向した気がする。サンタなんていなくて、親がプレゼントをあげているってばらしても、そこまでしてフェイクニュースを信じさせなくてもいい気がするけど。昼間の番組では、気を使うって伊集院さんも言っていたから、どうしても信じさせたい親というのがいるのだろう。それとも、子どものためを思って?そんなことが、子どものためになるのだろうか……みんなはどう思う?

ブログ「いらけれ」

今日は、起きたら11時でビックリした。本当に病気かもしれない。無駄に眠らない人になりたい。過ぎてしまった時間は返ってこない。ポッドキャストを聞きながら、支度する。『熱量と文字数』の「感謝!配信300回記念」を。ねつもじは全部聞いているはずなのに意外と覚えていないこと、最近のことだと思っていた回がそんなに前だったのかということがショックだった。ハガキ職人の仲間入りしたいと思った。トップリードのことを思い出したり、パーケンのことを思い出したりした。

家を出て、ちょうどいい空気を感じながら、早く新しい仕事に就きたいなと思う。ドアを開けるように、自分の人生を充実させなければならない。本当に不満だ。歩いている間に聞いたのは『マキタスポーツ食堂』と『SHIBA-HAMAラジオ』の木曜日だった。小平霊園の紅葉が、とても綺麗なことに、写真を撮っている人を見て気づく。よく歩いているのにな、でも、今日がベストな気がする。これからは年末に向かっていくのだ。『マキタスポーツ食堂』を聞きながら、食べ物をぼんやり食べるのをやめようと思う、ハガキが送れるように。

『SHIBA-HAMAラジオ』にゲストで出ていた夢丸師匠は、東村山で見た。落語の話、寄席の話が興味深い。過去の名人の仰天エピソードを含めて、落語家(噺家)というのは愛すべき人たちだと思うけれど、でも、時代は変わってしまっているから、どんどん許されなくなっていくのだろう。現状でも「話のプロ」なんて言われてしまうわけで、これは小説家が「文章のプロ」と呼ばれてしまうことと近い。彼らのなかの、尊敬すべき人というのはもっと、専門性を研ぎ澄ましたところではなくて、大きな生態として生じているのだ。

川沿いに新しくできた老人ホームは、窓が大きくとってある。ピンクのエプロンを着けた職員が、せわしなく動いている。壁には絵が飾ってあって、それがアンディ・ウォーホルの「キャンベルのスープ缶」。その部屋で生きる老人たちも、ポップアートのようになるのか。

なぜ、今日はこんな感じかというと、アクセスがゼロだからで、誰も読んでないんで、まあいいかって思うからだ。つまらなかろうがどうでもいい。サウンドピーツのBluetoothイヤホンは、リセットしても不具合を起こすようになったので、一年保証に頼って、やっとカスタマーサポートにメールを送った。ずぼらな自分にとっては大きな一歩。すぐに返事が来て、同じ商品の新しいものを送ってくれるそうだ。叡王戦の藤井七段の解説も聞いたし、良い一日となったという日記。

ブログ「いらけれ」

11月が終わって、12月になった。『粋な夜電波』の「韓流最高会議」も最終回を迎えた。放送ではカットされてしまったトークやアフタートークが、ポッドキャストで配信されていたのが懐かしい。ねじれていることと、こじれていること、一筋縄ではいかないことと、分かり合えいないことと魅力を、僕に教えてくれたし、もちろん「僕とTWICE」にある通り、TWICEに出会うきっかけとなった企画だったわけだ。場所がなくなると途端に、衰退したり、失われてしまう文化というのが間違いなくあって、だから「韓流最高会議」の跡を継ぐような何かが、出てくることを勝手に期待している。自分で作れなくても、応援ぐらいならできるしね。

最近は朝起きれなくて難儀している。朝のうだうだしていた時間と、将棋ウォーズをしていた時間と、ウイニングイレブンをしていた時間を、カルチャーに費やしていればすごい人になっていたことだろう。クソくらえだね、そんなの!僕は、僕の褪せていく時間を、こうして文字にして満足している。

ビクターの「RC-T1MD」は、2003年に発売されたんだってさ。僕の部屋の隅で、埃をかぶったCDラジカセ。今はどこぞの姉貴が置いてったヤツ。使ってた部屋と一緒に、勝手に譲り受けた。姉貴からは他にも、いろいろなものを勝手に譲り受けたわけだが、それは姉貴のプライバシーだから書かない。『深夜の馬鹿力』が録音されたMDの入った籠をどけて、トレイの蓋を開けたらアジカンの『ソルファ』が、いつ聞いたっけなあ。『僕たちのソウルミュージック』を入れてから、リモコンがないことに気づいた。何年も使っていないから、どこにあるか分からなくなって、部屋は汚いから探す気も起きない。引きこもっていた頃は、死ぬほど使い倒していたあのリモコン。『深夜の馬鹿力』を録音して、自分でCMと音楽をカットしていたあの頃。90分ぐらいの音源を、トイレでも風呂でも、家族で飯食ってても聞いていた俺。行っていない学校が、燃えることだけを毎日祈っていた中学生時代が、まだそこにある。忘れてしまったつもりだが、聞いたら思い出すかなあ。流れているロックミュージックと合わせて、心がいい感じになった。正しくなんかなるなよって、俺が僕に伝えた。

『カウボーイビバップ』が実写ドラマ化されると聞いても、期待も不安もないぐらいには擦れてますよ。でも、Netflixは契約してしまうだろうし、見てしまうだろうな。それが愛というものだ。