fade away
昨日のブログは、ひとつ自分にとって革命的だったというか、肩の荷が下りたという感覚があって、つまり、あのように書いてもいいのだということ、それを自分が許すのだということがが分かった。そのことが大きかった。必ずしも、もう、何か意味のあることや意見を開陳したりしなくてもよいのだ、という解放だ。少し頑張りすぎていた。頑張るならもっと、自分が読みたいもの、聞きたいもの、見たいものを摂取するために頑張るべきだ。だから、青椒肉絲のピーマンの鮮やかな緑と、崎陽軒のシウマイが歯に当たったときの弾力などと、無意味な文章を書き連ねてもいいわけであって、そしてそれを、自分が許可する。
『熱量と文字数』の300回特集を聞いていて、大切だと思ったのは、自分の知らないこと、自分と違うことを聞きたいという、サンキュータツオさんの発言だった。まったく同感だ。その思いを共有できていて、共振しているから、アニメを見ていなくても僕は、ずっとこの番組を聞けているのだろう。でも、今は自分が聞きたいことを聞きたい人の方が多いから、ほとんどのものが(僕にとって)面白くないのだと思う。
ずっと歩いていなかった道、大きな幹線道路沿いの道を通って、ぐるっとプロサッカークラブのグラウンドを回って、戻ってくるというルートを、久しぶりに歩いてみる。働き始める前に、よく歩いていた道。半年ぶりぐらいに、そのルートを通ってみる。自分の中に、特別な思いが浮かぶことや、新しいフィーリングが感じられるといったことがあるかと思ったが、特になかった。でも、ぐるっと回るところ、その曲がり角にあったコンビニエンスストア、セブンイレブンの向きが変わっていてビックリした。コンビニの向きが変わっていたというのは、こう、歩いているところを想像してほしいのだが、視界の左側の生け垣が途切れると、駐車場があって、開けて、交差点になっている角に、こちら向きにコンビニが"あった"。それが、コンビニがあったところが駐車場になっていて、一つ奥の土地に新しく作られたコンビニが、歩いている道路と交差する大きな道路に向いている。なぜ、こんなんことを詳しく書いているかというと、僕がそれを見たとき、本当に、心底驚いたからだ。
先週の『深夜の馬鹿力』を聞いていて疑問に思ったのは、サンタクロースって、なんで子どもに信じさせることになってるんだろうということ。これは、自分に子どもがいないから分からないのだろうか。そもそも、いつまでサンタ信じてたっけなあ。いつかは信じていたけれど、すぐにいない派に転向した気がする。サンタなんていなくて、親がプレゼントをあげているってばらしても、そこまでしてフェイクニュースを信じさせなくてもいい気がするけど。昼間の番組では、気を使うって伊集院さんも言っていたから、どうしても信じさせたい親というのがいるのだろう。それとも、子どものためを思って?そんなことが、子どものためになるのだろうか……みんなはどう思う?
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