僕とTWICE

コラム「後藤の超批評」,音楽,TWICE

僕とアイドルとファンと問いかけ。(2017/07/16)

TWICE。

オーディション・リアリティ番組「SIXTEEN」によって選ばれた9人からなる、韓国発のガールズグループ。番組放送時から人気を得ており、デビュー直後から注目された。その後、韓国の音楽賞を多数受賞する国民的なグループとなった。また、その人気は韓国国内にとどまらず広がっており、人気曲の一つ「TT」のYouTubeの再生回数は二億回を超えている。

第2次K-POPブームを牽引すると言われるほど、とりわけ日本のファンや、メディアで取り上げられる機会が多い。その大きな要因の一つは、メンバーの中に日本出身者がいることであろう。また、9人それぞれの、ぱっと見ただけで分かる容姿の美しさも、女子中高生の憧れを集める大きな要素となっているようだ。

もちろんパフォーマンスも人々を引き付けており、カラーポップと称するジャンル横断的かつ革新的な楽曲の数々の中に、キリングパートと呼ばれるキャッチーなダンスやフレーズが織り込まれていること(韓国では「CHEER UP」という曲の中のフレーズが「シャシャシャ」と呼ばれブームとなったし、「TT」の「TTポーズ」は日本でもブームになった)、長い練習生期間を経たメンバーや、特別な才能を見出されたメンバーが、歌唱やダンスパフォーマンスの中心を担っていることが、その魅力につながっている。

また、番組の中で人格の重要さを説く講座が開かれるほど、メンバーは人格を重視して教育されており、その礼儀正しさや明るさ、メンバー間の仲の良さ、歌やダンス、容姿のためにたゆまぬ努力をする姿も共感を集めている。

と、ここまでは、TWICEの、ただのファン(ONCEと名乗っていいのだろうか……デビューショーケース行ってないのに……)の、おおまかな紹介で、かつ、僕が一応ある程度のファンであることの説明(ファンの方が読んでも、「間違ったこと書いてる」と思わない、と思う……)である。

僕がしたいのは、アイドルとファンについて書くこと。で、実証的な裏付けがありますよ、という言い訳である(そもそも、TWICEをアイドルと呼んでいいのかどうか、という問題もある……)。

アイドルって何だろう。「これがアイドル」という確固とした定義はできそうにない(アイドルを自称していなくてもアイドルとしかいえない人たちはいるし、自称アイドルの中にはアイドルと到底呼べない人たちもいるだろう)。

アイドルパロディになってしまう条件から、逆にアイドルの条件を考えるならば、

・デビューが若いこと(SMAPとか考えると、年をとってもアイドルと言えるが、デビューは若くなければならないっぽい)

・愛嬌のある振る舞いをすること(めちゃくちゃ暗いアイドルとか見てみたい)

・容姿が美しいと多くの人から思われること(うーん……これは微妙……?)

・歌って踊ること(歌わない、踊らないアイドルも、もしかしたらあり得るかもしれない。踊らずに、楽器を弾くアイドルもいるし……)

が条件としてあげられそうだ。

しかし、これらの条件から外れてもアイドル、という状況がくる可能性が、アイドルの意味が拡散的である現代においては大いにありそうだ。

……と、アイドルについて考えるのは難しいので、乱暴にまとめる。「若くて、かわいくて、歌って踊れば、だいたいアイドル」と。だからこの定義ではTWICEはアイドルだ。

アイドルの要素に「未熟さ」をあげる人がいるが、僕は、それは重要だとは思わない。「歌が上手いから」「ダンスが上手いから」好きという、ファンのあり方もあるから。愛でる側の視線のあり方の一つでしかないと思う。

そう、愛でる側の視線はそれぞれであって、それぞれでいい。かわいい子の容姿に一目惚れしても、楽曲やダンスに惹かれても、逆に、歌やダンスが下手だからファンになってもいいのだ。

僕がTWICEを知ったきっかけは、「菊地成孔の粋な夜電波」の韓流特集で紹介されていたからだ。そこで楽曲(「CHEER UP」)に興味を持ち、MVを見て、かわいいなって思って、関連動画を見て、「SIXTEEN」見て……と、ずぶずぶと。

そのハマる過程のなかで重要な役割をしたのがこの動画の、三つの単語で自己アピール(愛嬌)をするというゲームだ。これ見たときに、「あーこの人たちスゲー」って思った。例えば、「おっぱー」一言でみんなをKOするミナとか、図らずも面白い動きになってしまうダヒョンとか、個性と愛嬌とが渾然一体になっていて、みんな自分のこと分かっていると思った。そこに“魅力”があった。

僕はずっと、その“魅力”に、今もやられていて、そこを愛でている。だから、ステージ外でも、例えば生配信でつまらない話をしていても(アイドルの話が面白かったり、興味深かったりしたら逆に嫌だと、僕は思っている節がある)、“魅力”にやられているから、ずっと見ていられる。

“魅力”の源泉は、自分の“魅力”を分かっていること(人はみな魅力の一つや二つはある。アイドルに向いてない魅力を持っている人が大半だが)、そして、それを“魅力的”に表現できることだと思う。この“魅力”を“魅力的”にというのが難しい。歌が上手いのも、ダンスが上手いのも、かわいいのも、それだけでは“魅力的”ではない。習熟=“魅力”ではない。聴きたいと思わせたり、見たいと思わせたりする“何か”が大事で、おそらくアイドルを志す人たちはその“何か”を身に着けるために頑張るのだろう(しかし、その“何か”は生得的なものかもしれない)。彼女たちがその“何か”の存在を感じさせるのは、彼女たちがオーディション番組出身であることが要因なのではないだろうか……と、のちに「SIXTEEN」を見て思うことになる。自分を“魅力的”に見せられない人は、オーディションに受からなかったからだ。

「僕とTWICE」の、他の人には退屈であろう話をしたのは、その関係をわかってもらいたかったからだ。つまり、「ガチ恋」でもなければ、裏を知りたいわけでもないということを。

AKBの仕組みの話からしなければならないので、結婚宣言について詳しく書くことはしないけど、僕は、自分がメンバーと結婚したいとも思わないし、誰かと結婚してほしくないとも思っていない。「彼女たちが幸せであらんことを」とだけ思っている。ただその魅力的な姿を見せてくれていればいいし、もし卒業するとか、引退するといったことになるとしても、それが不幸な原因でさえなければ「しょうがない」と思って、今までの活動に感謝するだけだ。

音楽を聴いたり、ステージを観たり、番組を観たりして、たくさん元気をもらったことで、もう十分に「ありがとう」なのだ……変わっていることと、気持ち悪いことは自覚している。

また、公式に見られるものの魅力だけを“ほんとう”とし、そこにハマっている。

「実は……」という情報を知ることや、「……らしいよ」という憶測の快楽は重々承知だ。確かに、実はミナとブルゾンちえみが同じダンススタジオに通っていたというような情報を、人より早く知っていたりしたら楽しい。

でも、僕はそういうものから距離を置きたいと思っている。僕が好きなのは、TWICEの○○であって、非公式的に流通するパーソナルな情報を知りたいと思ってないからかもしれないし、「こんなに知ってるぞ」っていう気持ちになるのが嫌なのかもしれないし、きりがないからかもしれないが……変わっていることと、気持ち悪いことは自覚している。

あと、「実は○○と○○は仲悪いらしい」とか「裏での態度が云々」とかそういった裏話とも近しいというか、ファンの中にも、そういう情報も含めて楽しむ人がいるが、僕は、番組の、ステージの上での、仲の良さや、態度の良さだけ観られればいいと思っている。

しかし、先ほども書いたように、愛でる視線はそれぞれでよいし、ファンのあり方も人それぞれ違ってよい。犯罪行為にさえ及ばなければ「ガチ恋」でもいいし、とにかく全ての情報を知りたいと思うのもいい(むしろ、毎回サイン会に参加したりするような人に対しては尊敬している)し、アンチ的な感情も含めてファンでいるのもいい。いいのだが……。いいと思うのと、嫌な思いをしないというのは違う。ファンダムに深く入り込めば、絶対関わらない方がいい人や、クソみたいなツイートが目に入ってくる。ファンヒエラルキーの問題も、好きのあり方を強制する雰囲気を感じたりすることもある。

話がどんどん個人的な方向に行くのは、僕の悩みがこれを書くきっかけだからだ。「喜びを他の誰かと分かりあう! それだけがこの世の中を熱くする!」(小沢健二/痛快ウキウキ通り)わけだが、このやっかいな性格のせいで、ファンダムに入っていけないのだ。僕も共感したいのに!!

同じものを好きでも、分かり合えないのが人間だし、ファンコミュニティで傷ついて、ファンが嫌いになって、結果的にTWICEを嫌いになるのも嫌だし……(全てのファンダムで同じようなことが起こってるんだろうなあ……)。

ONCEの皆様、あるいは他のアイドル、あるいは何かのファンの皆様……こんにちは。

皆様は、愛し方の違うファンをどう思っていますか?同じもののファンのなかに、嫌な人がいるときはどうしていますか?あるいは、嫌悪感情といかに向き合っていますか?

ぜひぜひ、教えてください。

熱が冷めた件について(2017/07/29)

先日こういうものを書いた。「僕とアイドルとファンと問いかけ。」

TWICEについて思うところを、それなりの長さを書いたものの、例えば日本デビューに際してのプロダクトのガッカリ感とか、もっと詳しい好きなところとか、メンバーのカップリングとか、書き残したことは多すぎるほどだった。しかし、それについて書くのは、ずっと先になるか、あるいはしないだろうと思った。

書きたくないわけでも、書けないわけでもなく、むしろどのようにでも、いくらでも書けてしまうだろう。どうにでもできるからこそ、せっかく書くのならば、大げさに言うのならば作品というか、一つの読み物にしたいと、僕は思っていた。だから、ブログとはいえ、感想とか思い付きを、ずらずら並置するようなものには、したくないしできないと考えていた。これは一つの美意識だったのかもしれない。

記事を読んでもらえばわかるが、例えば、急に文体が変わるところは話が私的になるし、急な自分語りは後で意味づけされる。僕は、いくらでも書き直せる前提(無限の編集可能性)で書いているものが、理由なく変であったり、思い付きであったりすることに、書きながら耐えられなかった。書くことはつまり、いくらでも後から手を入れられるのだから、どんな文章も”あえて”であるということだった。また、書きながら思い付いたことであっても、書かれたものの流れの中に取り込むことができてしまうということだった。

こういう風に考えていたから、こんなことをツイートしていた。そんな僕が大馬鹿者だったと気づいたのは、スマホからランダムで再生された「CHEER UP」を聴いても、あの頃のようにウキウキしなかったからだ。そういえば、記事を書いてからというもの、曲を聴いたり、PVを観たりする機会が極端に減っていた。それまでは、一時間ずっとTWICEの曲だけをランダム再生したり、別の目的でYOUTUBEにアクセスしたのにいつの間にかPVを観ていたりしていたというのに。まだ部屋にはポスターが貼ってあるし、昨日の生配信だって見た。でも、僕にかかっていた魔法によって、聴くだけで感じていた漲るパワーが、見るだけで奥底から湧き出してくるような確かにあった感覚が、失われてしまったのである。

世界は仮構の上に成り立っている。恣意的に引かれた線の中の国家で、ただの紙である紙幣を使いながら、死んでいるかもしれないのに未来の予定を立てる。生きるとはそういうことだ。生きていくには、明日を、国家を、愛や勇気を、作り事かもしれなくても、それでも信じなければならない。僕は、アイドルはいっぱいいるのに、その中の一つのグループを特別だと信じていた。ハマったのは偶然であり、思い込みであり、作り事であることは、もちろん知っていた。しかし、「それはそれとして」、僕にとって特別だとすることが重要だったし、それが生きていく推進力になっていたのは間違いなかった。

ブログに短い説明文を、あるいは好きになったきっかけを、そのファンとの関わり方に悩んでいることを書くために、好きになったわけではない。だから、ひとまず思いのたけを書いてスッキリしたから「さめた」わけではない。書くことで好きの度合いが減衰しなかったものもあるし、読むことでより好きになったものもある。書きながら読み、読みながら書いているわけだから、書くことでもっと好きになってもよかったはずだ。

きっと書き方が、書く態度がよくなかったのだろう。“あえて”書くとか、思い付きすら流れの中に取り込みながら書くとか、そうした俯瞰した、客観的な態度で、大事なことについて書いてはいけなかったのである。複雑で、渾然一体としていた、対象に対する気持ちや思いを、観察可能なものにするために、無理やり分解してしまったような感覚。そのせいで、魔法が解けてしまったのではないか。

もっと対象を血肉化する書き方というか、自分と対象を分けない書き方があったのではないかと、今では思う。冷静でいられるように注意しながら、対象を自分の中で位置づけたりしない書き方が。一つの読み物として完成させてしまうことで、対象をその程度のものとして、つまり一つの「ネタ」にしてしまわない書き方が。

溢れ出る愛の激流のただ中で、もう言葉の連なりが、破綻してしまっても構わない……そう書きたいと思いながら、そうは書けずに、これを書いている。

不安と第六感について(2017/12/15)

TWICEにとって2017年はどういう年として記憶されるのだろうか。韓国での人気を揺るぎないものとした年?日本でのブームとデビューの年?あるいは、スキャンダルがあった年か、殺害予告をされた年だろうか。僕が文章を書いたその後、彼女たちはいくつかの楽曲を発表し、日韓でいくつかの記録を作り(123)、いくつものアワードで賞をとったし、日本の年末に放送される大きな歌番組にも出演することになった。

僕はといえば、相変わらず低空飛行の毎日を、日韓、あるいは世界中のONCEのみなさんが熱狂するその様を遠目に眺めながら、スマートフォンから流れる曲に勇気づけられたり、トゥワイスタグラマーになったり、金がないのに日本デビューライブのDVDを買ったりしていた。

自分とTWICEの距離は、「熱は冷めるが愛は残る」という感じだ。それは、もちろん「Like OOH-AHH」や「CHEER UP」、「TT」といった曲の素晴らしさが簡単に色褪せないからでもあるけれど、なにより僕がSIXTEEN組であり、TWICEの優雅な私生活組であるからだと思う。要するに、曲やMV、短い動画で熱が上がった時に、彼女たちの物語をたくさん共有してしまった、気にならなくなったり、忘れたりすることができないほどに、苦労も努力も知ってしまったということだ。だから、本当に詳しいONCEの方々のように、サイン会の情報まで追うようなことはなくともずっと好きだし、この感じなら、これからも好きだろうと思う(昨日「Like OOH-AHH」のMVを見ながら、「死ぬまでこの曲を聞くんだな」と思ったりもした)。

僕はこんな感じだけど、世界ではどうか?

個人的な観測でいえば、TWICEの公式ツイッターに付けられるリプライに英語がとても増えた。それは、国を超えたTWICE人気の広がりゆえだろうし、またそれは、K-POPというカルチャーが、アメリカで認められてきていること(米ビルボード記者に聞くK-POPの躍進 防弾少年団はなぜ人気?)と不可分ではないだろう。

前出の記事にある通り、アメリカでは現在、K-POPが強固なファンベースを持つ一つのシーン(それはパンクやラテンミュージックのように)として認められ始めているという。しかしそれは、メインストリームの下に格付けし、メインストリームには入れないという宣言のようにも思える。アジアからアメリカのメインストリームのヒットチャートに入るものは、バイラルばかりであり、お金になるのはバズることである。しかし、それは目指すべきものなのだろうか。

また、メインストリーム自身も変化しており、相対的にアメリカのチャートが世界に与える影響力は落ちていて、アメリカの文化が自国に閉じているように見える(ビルボードtop100を見て欲しい、あなたはその内の何曲聞いたことがあるだろうか)。(しかしそれは、日本の文化が閉じたからのようにも思えるし、もしかしたら両方なのかもしれない)

世界では、インターネットとグローバリゼーションと資本主義ががっちり手をつないでいる。インターネットとという、何者であるかを一度消去される疑似世界においては、必然的に「私は何者か」ということを自己定義することを求められる。それが、世界的なナショナリズムの台頭や蛸壺化の原因のようにも見える。

今、TWICEのプロデュースをしている人たちは、世界進出のデザインの難しさに頭を抱えているのだろうか。それとも、(日本のファンに、日本での売り出し方にガッカリされても)「Likey」のコンセプトが、世界の時代の精神の潮流に合致したことに確かな手ごたえを感じているのだろうか。アイドルとして、音楽を売るのだろうか。コンセプトやパフォーマンス、あるいは容姿を中心に置くのだろうか。ナショナリズムとオリエンタリズムとバズを避け、ポップスターとして一番上を目指すのだろうか。そのために、英語を勉強させるのだろうか。あるいは、それがオリエンタリズムでも、バズでも、売れれば良しとするのだろうか。はたまた、資本主義の要請を退け、蛸壺で良しとするのだろうか。

僕がTWICEを知るきっかけとなった「菊地成孔 粋な夜電波」の人気コンテンツ「韓流最高会議」を、これを書くために2011年のものから聞き直して、分かりたくなかったことが分かってしまった。縦で追うと、その当時一番だったグループが、世界進出を境に、明らかにパワーを失う過程がはっきりと分かってしまったのだ。それは、K-POPという過当競争(韓国の音楽番組見たことある?すごいよ)の先のウマさにも限界があり(菊地成孔さんは「美味しいけどもう胸焼け」と表現していた)、全ては栄枯盛衰だという残酷な真実でもある。

僕は、TWICEが、紅白とかどうでもよくなるくらい、世界で認められてほしいと思うけれど、実はもう下降線の中にいるのではないかという不安も抱く。実際、「Like OOH-AHH」「CHEER UP」「TT」の壁(これらの曲より良い曲が作れるのかという問題、今のところ作れてない気がする)もある。

未来予測はしないけれど、2018年だって、その先だって、TWICEとして順風満帆ってわけじゃないだろう。人気がなくなるかもしれない。スキャンダルや予期せぬバッシングがあるかもしれない。脱退するメンバーがでるかも、解散だってする時がくるかもしれない。今はただ、それはそれかな 、って思ってる。考えたってしょうがないから。また音楽を聴いたり、ステージを観たり、番組を観たりしながら、元気をもらっていこう、と。悲しいことが起きたら悲しめばいい、と。2018年も、その先も。

熱は冷めたが愛は残ったんでね。犬は吠えるがキャラバンは進む、ってね。