ブログ「いらけれ」

「頭痛派」なんて言っているのに、最近は、すっかり頭痛に襲われることもなかったのに、久しぶりに頭が痛くなって、何もできない……。やはり、僕はここで少しゆっくりして、休んで、また立ち上がる日のために、力を蓄えた方がいいのだろう。

Amazonとから楽天とか 、ポイント増量だとかクーポンだとか、僕も活用しているし、あれば嬉しいけれど。だけど、いつかお得なセールやキャンペーンがあることを知っていて、今、この何もない状態で、ものを買うということが、とても損に感じてしまう。もともと、これが普通のはずなのに。しかし、どうすればポイントが貯まるかとか、クーポンが手に入るかというアナウンスが、あまりに多くて、しかも複雑だったりすると、それを調べる気も起きなくて、つまり、ただ「買うと損してしまう」という気持ちだけ残ってしまったりして。アンケートもそうだけど、相手は人間なんで、複雑になったり面倒になったりすると、どれだけ有益でも心が離れてしまうという、このことを理解してシステムを上手にデザインする人が出てきたら、世界を制覇するだろう。

そういえば、駅から伸びる商店街の、歴史ある佇まいの和菓子屋の商品ケースに、「サンタクロース」というサンタの顔のお菓子が並んでいたことを書き忘れていた。僕の中に、この光景は鮮明に残っているが、ここで書かなければ、いつか忘れてしまうだろうし、忘れてしまっても、ほとんど人生に影響はないだろうが、しかし、書き残しておきたいと思った。

家に飾ってある唯一のサインは五十嵐亮太のものだ。煤けているそれは、私が子どものころに、家族で神宮球場に行った時のもので、番号が球場のビジョンに表示されて、その番号のチケットを持っている人は、試合後の選手から色紙にサインをもらえるというプレゼント企画に当たったのは、今では結婚して、家を出ている姉だった。
姉は、野球に興味がないで連れてこられていたのだし、私は幼かったのだから、少し嘘をついたって、私がもらいに行くべきだったのではないか?しかし、五十嵐と握手して、色紙の○○さんへのところに名前を書かれたのは私ではなかった。もしそこで、私がサインをもらっていたら、もしかしたら本格的に野球に取り組むようになっていたかもしれないし、そうしたら人生は変わっていただろう。そんなことを考えながら、彼が10年ぶりにヤクルトスワローズに復帰するというニュースを見ていた。

金に目がくらんで戦争すんのも、損得を勘定して戦争しないのも、どちらも人間なのですね。すべては良くも悪くもなりえて。

ブログ「いらけれ」

ブログ記事の、2019年1月1日分のフォーマットを作った。もう、来年がすぐそこなのだ。少し意識し始める。今年に起きたすべてのことについて、長い文章を書きたいという気持ちもあるけれど、僕に長い文章を書く胆力はもうなかった。いずれは、長いものも書けたらいいけど。

Amazonで1000円の腕時計が、文字盤とベルトを繋ぐところの金具が壊れて、買ってまだ5か月くらいだったので、大きなショックを受けた。時計部分は保証もあったんだけど、ベルトは何もないらしい。ああ。しかし、寝ても覚めても、風呂でも身に着けていたので、しょうがないのかもしれない。西友に買いに行ったけど、腕時計は見つからなかった。神が、時間を気にせずに過ごせと言っているのだと思って、そうやって生きてみよう。

あれだなあと思った話。こんなに歩いているのに、なぜ痩せないってこう、考えていたわけですが、ああなるほど、気持ちを入れて文章を書くときに、コーヒー飲んだり、ミックスナッツを食ったりしてるからだなあって分かったわけ。飲食してないと書けないようになってしまいましてね。でね、ナッツに落花糖混ぜたり、チョコでコーティングされた柿の種を混ぜたりしてきたわけ。ナッツだけじゃ味気ないからさあ。これが合うんだなあ、それで止まらなくなっちゃう。それで、今度はドライフルーツを混ぜてみて、これもイケるなあ、発明だなあと思ってたんだけど、今日西友に行ったら、ミックスナッツとドライフルーツが一緒にパックされたものが売っていて……ああ、調子に乗っていたなあと思った。

ビックリした話。うちにあった菓子パンがさあ、たぶんクリームパンだったと思うんだけど、パンにしては結構前から置いてあるなあって気になって、小腹も空いていたし、もし賞味期限がギリギリとかだったら食べてしまおうかなって夜中に、天井の電気ではなく、部屋の隅の小さなライトで、包装に書かれた日付の表示を目を凝らして見てみると、26日だった(これ24日のことなんだけど)から、ああ、もう少し大丈夫だな……って、そこに2がなくて、つまり12月ではなくて1月26日までが賞味期限で、手に持っているこれはクリームパンではなくて、防腐剤を焼いたものなのかなと思った。

スーパーマーケットから出たとき、左下から右上にかけて斜めに飛行機雲が、17時の赤みを帯びた空に、視界の外から始まって、視界の外に向かって伸びて、あのマンションから駅舎まで、こうして引かれた一本の線によって、一瞬の内に人生が特別になった。


American Pleasure Club – “this is heaven & id die for it" (Official Audio)

“art is dead” read the personal ad

ブログ「いらけれ」

書く人間の生活。書き始めた人間の生活は、書かなかったころには分からなかった。書かない人間には、書く人間の生活が分からない。書くことが中心にある生活。それは例えば、初めて「自転車に乗る」ということの感覚を掴み、しかし、そこで止まり、そこから降りるための手段を持たない少年のような、回転し続ける足。少しずつスピードを出せるようになって、公園の芝生の上ならばどこへでも行けるようになって、安定して進み続けているものの、夕暮れになれば、転んで終わることを運命付けられている。転ぶまで、走り続ける。自転車に乗れない人間には、さっぱり分からない例え。

この二日くらいで、『少年ハリウッド』を2期の終わり、26話まですべて見た。10時間ほどだろうか、本当に楽しかった。少ハリについては、僕はまったくの当事者であり、冷静に見ることも語ることもできない。「スパイシーフローラルフルーティー体育館」「ごぼう&バンバンジー」のように、いくらでも小ネタを書き連ねることはできるけれど、そういうことがしたい訳じゃないし。このアニメを見ると、クリスマスが特別なもののように感じるから不思議だ。年末に芝浜を聞くように、クリスマスには少ハリを見たいものだ。
もし続きを作るのならば、彼らはネットの生配信をしなければならないだろうし、SNSも、もっと活用しなければならないだろう。放送当時はあれでよかったアイドル事情とも、今では少し変わってしまったのだなあと思った。また、続きということならば、本格的な成功と、本当の終わりを描くことになるだろう。だからそれは、ぜひ見たいなあと思う(もちろん、頭の片隅にはTWICEのこともある)。
成功に伴い、劇的に忙しくなることで、メンバーの健康問題と労働問題は浮かび上がってくるだろし、上り調子だった人気が落ちていくということも経験するだろうし、人間のように、グループにだって、死は必ず訪れる……。だから、あの素晴らしい、パンチラインだらけの、緩急の付いた脚本で、その芯の通った構成で、これらの問題にアプローチしてほしいなあと。それを見ることができたら、これから先の人生に、どれだけ支えとなることだろうか。だから死ぬまで、続きを諦めないぞ、と思ったし、なんなら「俺が有名になって、一押しアニメとして紹介してやるぞ!」とまで思った。それは無理だけど。でも、日本にいるからこそ楽しめる部分もあるのに、多くの日本人が見ていないというのは、やっぱり損してると思うし……というか、26話の完全版上映、見に行くべきなのかなあ。

クリスマスだろうとなんだろうと、関係なく一人歩く僕が並木道を抜けて、通行禁止で柵の付けられた歩道橋の辺りで、彼女とすれ違ったんだ。赤系統のニット帽で、自転車に乗って、僕は「あ、サンタ帽」と思ったけど、そういうつもりだったのかどうかは分からない。ガン見してたら目が合って、ああ、恋というのは、こういうときに始まるのかもしれない。


Young the Giant: I Got (In The Open)

I got buried
No it won’t be long before I rise in

ブログ「いらけれ」

『少年ハリウッド』7話で、テッシーが言っていたことが、完全に忘れていたけれどJYP(TWICEの事務所です)の教え(謙虚な気持ちを忘れない)とまったく同じで、自分の中で一本芯が通ったというか、自分が好きなものの核心がそこにあるのだろうことが分かった。
というか、TWICEを好きになったのは、恐らくこのアニメを見ていたからで、そしてTWICEを好きになったことで、このアニメをより深いところで理解できていると思う。好循環。しかし、素晴らしいアニメを見ると、生きる気力がもらえるので、もっとアニメを見ていくべきだと思った。心のために。

フリーセルが、日に日に上手くなっている。毎日1時間ぐらいやってるからな。それで、なんになるんだろう、この技術。すべての技術に意味があるわけではないということ。無意味な修練というものがある。
一方で、将棋がまったく上手くならないという現実がある。毎日1時間ぐらいやってるのにな。こちらだって、上手くなっても意味がないけれど、どれだけやっても上達すらしないこともある。真理。

野菜炒め&鶏もも肉のソテーリベンジをやることにした。前回より長めにフライパンの上で焼いたので、しっかりと火が入っていた。そのかわり15分くらい暇だったので、一緒に買っていたクリームチーズのタルトとコーヒーを飲んでいた。シバハマラジオの金曜日を聞きながら、小さな黒い折り畳み式の椅子に腰かけて、ときどき鶏肉の様子を伺った。この時間に、このくたびれた人生のすべてが詰まっているような気がした。インターネットの文字をなぞって、弱火で炒めた野菜シャキシャキで、フライパンに当たらないほどの火で焼いたもも肉はジューシーだったし、一緒にウイスキーを飲んでいい気持ちになったけど、あの過去のあのくたびれた時間が、頭から離れなかった。うなだれた姿の僕が、これまでも、この先もずっと、そこにいるのだと思った。

図書館で借りていた『面白くて眠れなくなる社会学』を、明日返さなきゃと深夜に読んでいたら眠ってしまった(これが言いたかっただけ)。橋爪大三郎先生の本も読んだことあるし、初学者向けということもあって、あまり知らない話もないなあって、目を開けていられなかった。自分が既に、かなり詳しいのだということは、実は自分では意外と分からないことだったりして。もう入門ではなくて、少し前に進んでもいいのかなって思った。返すついでに、まったく見たことも聞いたこともなかった『もうひとつの愛を哲学する』という本を借りてきた。最近の本、当たっていないので、これは面白いといいなあ。


髭「TOMATO」

僕らしい視点や
僕らしい角度のアイロニー
それから…