ブログ「いらけれ」

玄関を開けて中に入ると、土間には、ぱっと外に出るためのサンダルや、履き古したスニーカーなど置かれている。左側には高さ1メートルほどの箱と、閉まった扉があり、これはおそらく下駄箱なのだろう。上には、花や小箱が置かれている。小箱の中には、ボールペンやシャチハタが入っている。その隣には、さらに一回り小さい箱が置かれているのだが、これは修学旅行のお土産で、黒い背景と枠の中に、金色の龍が二つ収められている。正面には急な階段と廊下があり、廊下の先はリビングにつながっていて、その途中の扉を入ると風呂場と洗面台がある。
洗面台の前に立った僕は、自分の髭面を見る。髭を剃る手間がなくなればいいと思う。それか、髭面でも白い目で見られない時代。この顔は誰のためにあるのだろう。僕は別に、髭が伸びていてもかまわないのだが、社会が許さないから剃っている。シェービングクリームを塗って、顔の下半分が白くなる。刃が滑ると共に、言葉が滑り出てくる。すべてはイメージの連関だ、そのことさえ理解できれば、小説を書くことなんて容易い。
例えば、そこに立っているのがきりんだ。いや、汚れの付いたコップに歯ブラシが立てられているだけなのだが、僕にはきりんに見える。鏡の脇に備え付けられた棚の中に、家の誰かが買ってそのまま入れっぱなしになっていたものを、それまで使っていた歯ブラシが口に入れた瞬間に「これは駄目だ」と分かるようになってしまったから取り出した。頭が小さくて、首がほっそりしている美人の歯ブラシだった。なぜ頭身が美と結びついているのか疑問に思いながら、きりんにも見えた。美人のきりんに歯磨き粉を付けて、歯を磨いた。

今日は、アンケート調査で阿佐ヶ谷に、本川越行きの電車から国分寺で乗り換えて、中央線で向かうつもりだった(運賃がかからないから)のだが、西武新宿行きの電車からバスに乗り継ぐという行き方があることを忘れていて、そして、乗換案内アプリで一番上に表示されていたのがそちらのルート(こちらの方が早く着くから)で、その電車の到着時刻を基準に行動していたから、最寄り駅に到着した時にはもう中央線ルートでは開始時間に間に合わなくなっており、仕方がないから鷺ノ宮まで行って、しかしバス停が分からず、少し探して見つけたバス停は逆方向で困惑しながら、キョロキョロしたら反対側のバス停に人が並んでいて、30メートルほどダッシュして、丁度停まったバスに乗り込んだ。

ブログ「いらけれ」

花粉症の薬を飲み始めた。具体的な症状が出ているわけではないが、本格的なシーズンを迎える前から摂取しておいた方が良いと聞いたことがあるし、あと、朝起きたら少しだけ目がかゆかったし。それで、ダウンジャケットを羽織って外に出たら、並木道で涙を流しながら歩いている中学生女子とすれ違った。僕みたいな見た目の奴が声をかけるわけにもいかず、とても悲しい思いをした。彼女も花粉症で、目がかゆかっただけならば良いのだが。そういうことでもないだろうし、無力が染みる。

だから音楽を作りたいと思った。良い音楽はどこまでも良く、僕の心を癒してくれる。こんな良薬を自分で作れたら、きっと楽しいだろうな。
その上、良い音楽を作る人は、とてもかっこよく見える。文章を書いていて、かっこいいと思われるなんて、そんな可能性はあるのだろうか。かっこよく見られたいがために、物を書いているわけではないけれど。間違いと欠陥だらけの言葉という機構それ自体が、なかなかに、ダサい。
当然のことながら、音楽を作っただけでかっこよくなるわけではないし、音楽を作ってかっこよくなるためには相応の努力が必要だろうし、そもそも、これだけたくさんの音楽が溢れている世界なのだから、聞いてもらうだけでも難しい。
しかし、何事もまずやる。やっていて楽しいからやる。やっている自分が好きだからやる。そういう意識を馬鹿にしないで、やる。何でもやればよいと言っているわけではない。他人の家に入ってはいけない。美意識と倫理観で、やることをやる。

そこに転がっている石を蹴って、ああ、また駐車場が出来たんだなあと思う。ここは昔呉服屋だったから、その時は前を通っただけだった。その後、政治家の事務所らしき何かに変わったから、その時も前を通っただけだった。そしてある日、工事のための囲いができた。僕は、その前も通った。
白っぽい土が、黄色と黒のロープで区切られている。そして、道路の近くのところに、料金を徴収する物々しい機械が設置されている。今ここで働いているのは、こいつだけだ。
この街にコインランドリーが増えていることは気づいていたが、その理由までは分かっていなかった。先日も、小さな八百屋さんが小さなお弁当屋さんに変わったあの建物が、最新型のコインランドリーになっているのを知った。そこでも、働いているのは洗濯機だけだった。
機械を働かせて、自分は枕を高くするというのは、たしかに理想的な生き方だけど、皆がそれを目指してしまったら、車の数以上の駐車場ができ、ほとんど回転しない洗濯機の並ぶコインランドリーが作られることになる。現代は皮肉だ。

ブログ「いらけれ」

午後2時に缶ビールを飲んだら牢屋行き、なんて国家ではない。川沿いのコンビニは変な形だった。アナログ時計の1時15分のような敷地にその店舗は建てられていて、すぼまった左側に入口があり、すぐ目の前にレジがあって、それから右奥の方へと向かって店内が広がっている。会計している人の後ろを通って、一番奥にあるケースの前に立った。金色をした缶の大きいものと小さいものが、交互に列になっている。同じブランドのサイズ違いが、上下に並べられているのだ。

スモークチーズと銀杏も買った。牛丼一杯なら食べられそうな代金を、auのプリペイドカードで支払った。プリペイドカードといえば、この前受けた携帯電話のアンケート調査で、毎月の携帯電話の料金が3万円近いことを驚かれた。ただこれは、プリペイドカードへのチャージを「かんたん決済」していて、電話料金とまとめているからで、通販やらイベントのチケットやらを、ほとんどこれで支払っていることを考えれば、むしろそれほど使っていないと言えるだろう。

今日の午前中のアンケートでは、複数の靴下を履き比べた。正直、靴下の肌触りに違いなど感じられず、すべて黒一色でデザインも統一されていたから、目を閉じるまでもなく、どれがどれだか分からなかった。しかし、分からないと言うのも何なので、「少し柔らかい感じがします」とか「こちらの方が暖かい気がする」などと言った。もし、同じ靴下を履かせて比較させるという心理実験だったのならば、目論見通りの大成功、といったところだろう。

終わりが見えないほど先まで続いていて、川面までの距離もある広い河川敷の途中に、意を決っして腰を下ろした。それほど降りていかなかったから、座っていても、遠くまで見渡すことができる。平日昼下がりには速度のある風が吹いていて、人のいないグラウンドの土が舞っている。おつまみだけのビニール袋も、飛んで行ってしまいそうで心配だ。しかし、春の日光はとってもやさしいから、僕は笑う。後ろを通った自転車のベルが二つ鳴った。ぐっと口元に近づけたビールの香り、さらさらとした苦み。流石に500mlは多かったかな。上を向いたら、雲が素早く流れて行って、あの凧揚げを思い出した。

忘れちまった事も忘れた

SPARTA LOCALS「ウララ」

ブログ「いらけれ」

シュクメルリ鍋を食べたのは、「小説的思考塾」の帰りだった(このことについては、またいずれ書こうと思う)。久しぶりに暗い霊園の中を通ったら、とても怖かった。疲れていた。そして、その後も翌日も、人に会う予定がなかった。家の近所の松屋は、最近セルフサービス店舗になった。疲れていたから、持ち帰りにした。セルフサービスは、作る場所と食べる場所が隔離されているという印象だった。人々が関わり合わなくなる未来が、そこにあった。食券に書かれている数字が、モニターに表示された。出来上がった。家のなかでは、ニンニクの匂いが強く感じられた。海猫沢めろん先生もツイッターに書いていたが、チーズとチキンだった。丁寧に洗ってから、紙の容器をゴミ箱に入れた。

『僕たちだけがおもしろい』の「たったひとつの小さなルールがサッカーを壊しちゃった話」がとても面白かった。実は私は、この件について知っている数少ない(?)日本人の一人だった。真夜中に面白いウィキペディアのページを探していて、この事実に辿り着いていた。一読して「僕おもっぽい話だなあ、話してくれないかなあ」と思ったエピソードだったから、こうして語られたことが嬉しかった。ウィキペディアを読むだけでも、真夜中らしからぬ興奮を覚えるほど充分に面白かったのだが、この回を聞いて初めて知る方がより面白いと思うので、聞いてから読むことをお勧めする。

プロ野球のキャンプ中継が、その日から始まっていた。出掛けてしまったから、最後まで見ることはできなかったものの、東京ヤクルトスワローズのキャンプも、しっかり放送されていた。これは、僕にとってかなり重大な出来事だった。だったのだが、その重大さを伝える術はあるのだろうか(「わたしは怒っている」を読んでもらえれば、少しは理解していただけるかもしれない)。
スワローズの本格的なキャンプ中継は、今年から始まった。ネットも含めて、多くの球団がキャンプ中継番組を持つようになるなかで、我が愛しのスワローズは、グラウンドやブルペンに向けられた固定カメラの映像を、ユーチューブで配信するのみという、何もかもが足りない状態が続いていたわけで、つまり、それはそれは飛躍的な進歩を遂げたのである。
応援する球団の選手を見ながら、球春到来を待てる喜び。焦らされる今が、とても楽しいのだ。誰に感謝すればいいか分からないから、世界にありがとうだ。

日常の脇に座って、記録を取る。日常の記録係になる。対局者に一番近い場所で将棋を見る記録係という仕事は、将棋を学んでいく上で、とても役に立つそうだ。僕は日常の側で、日常の記録を取りながら、日常から学んでいる。何を?日常のことを。