ブログ「いらけれ」

何もやってない。駄目だ。

ポテトチップスを食べた。夕飯を食べて少し横になったら、もう眠っていたぐらい疲れていたから、あらかじめ買って帰ってきていた。スーパーマーケットにはたくさんの人がいた。ドクターペッパーとミルクレープも久しぶりに買った。ポテトチップスは、プライベートブランドの梅味と、鳥貴族が監修したという貴族焼スパイス味を買った。
ミルクレープは賞味期限が三日後だったから、一口分だけ切って食べた。ドクターペッパーはまだ飲んでいない。二袋のポテトチップスは、半分ずつ食べるつもりで、両方を開けて、全部開けた。死にたいと思うまでもなく、病気で死ぬだろう。それでよかった。

人生がどうでもよくなってしまう私に焦れる。

哲学カフェと呼ばれるものは一般的に、そして基本的に、専門的な知識がなくても参加できることになっている(ものが多いと思う)し、むしろ、難しい専門用語などはなるべく使わないことが推奨される。つまり、掲げられるテーマについて、皆が素人として発言し、それを素人として受け取り、応答していくという場が設定されるわけだ。
言うまでもなくそれは、無知や無理解による発言を許容するということでもある。実際に、そうした発言に出くわす場面もある(もちろん、私自身がそういった発言をしてしまう時もある)。自由に物を言える場所も、どこかには確保しておかなければならないと、一応理解はしているつもりだ、しかし……普段、人々の放言にげんなりしている私が、「それで良い」と言っていいものだろうか。
このポイントについて私は、この先もしつこく考えていかなければならないと思っている。専門知は間違いなく重要なのだから。知識は、差別や偏見を許さない防波堤でもあるのだから。それを分かった上で、対話を成り立たせる方法。

そういう私もいるし、そうではない私もいる。

遠く響くメタファーは、作者の意識の外で生まれた。物語構造とその中の記述が比喩関係にあると、作者は読み返して気が付いた。それぐらいの距離が必要なのではないかと、そう考えるようになった。
大体、私が思い付くことなんて高が知れている。煌びやかな才能や優れた頭脳を持たない組の私たちは、意識の内で小細工してはいけない。書かれつつあるものに深く浸かり、滞在し、身体全体で感じ取り、出力するのならば、それは私たちの単純な能力を超えた文章となるだろうし、一人の人間が全体重をかけることができれば、ある真実を宿すことができるだろう(付言すれば、作者が意図していない真実を読み取ることこそが、批評と呼ばれる営みの中心点なのではないだろうか)。

ブログ「いらけれ」

一人でなんとかする難しさ。「仕事だから」という理由だけで書けている文章があって、どうして日記が書き続けられているのが分からない。金になる予定だったのに金にならなかったから依頼主の自分は死んだ。時間つぶしで入った駅の本屋で、フェルナンド・ペソアの『新編 不穏の書、断章』を見つけて、ページをペラペラと捲って、今日も書けそうだと思った。井戸を覗き込んだ時のような感覚が、言葉たちによって実現されていた。買わなかったけど買えばよかった。この程度の、決意や覚悟に満たない何か、偶然の出来事と、それが私に小さな心の動きをもたらすことによって生まれた弱い意志が、少しずつ文章を伸ばしていく。

自分に都合よく編集された日々だ。僕は、弟が作ったサイトを見つけてしまった。そこには日記という体の文章があって、僕のやったことや言ったことが書かれていた。暴露されているみたいで腹が立つ。それに、悪く書きすぎじゃないか。僕を悪者に仕立て上げ、自分を良い人のポジションに置いて。腹いせに、今日から僕も弟のことを書いてやろうと思う。

レミオロメンの曲を聞きながら歩いていることが多い、最近。初期は変な曲調ばかりで楽しいというのもあるが、 何よりも歌詞が変で興味深い。例えば「昭和」の、最後のサビが「海の地平線月が照らし」と始まるところとか。この脱臼した感じが、次の「人の温もりが恋しくなる」に浸食して(両方「○○の○○」で始まっているのは意図的だと思う)、くっついていておかしくない「人」と「温もり」という言葉が、なんだか違って聞こえてきてしまう。ない言葉としての「海の地平線」のように、「人の温もり」なんて、この世にはないのかもしれないと思う。他にも面白い歌詞がいっぱいあるから、いつか、書いてまとめよう。いつか。角を曲がる。
スタッフになった哲学カフェのポスターを貼ってもらうためにコメダ珈琲に行く。コメダ珈琲にそういうスペースがあるって知ると、少し好感度が上がるよね。店員さんは暖かく対応してくれるんだけど、どうしても、どう思われているんだろうと考えてしまう。もやもやしながら店を出てしまうのは卑屈だからだ。この卑屈は生まれつき?少なくとも、不登校になってからこっちはずっと卑屈だ。信号を渡る。
街中にはとても小さな教会があって、貼り紙がしてある。詳しくない私は、日曜日に何が行われているのが知らないが、日付の隣には「偽キリスト、偽預言者」と書いてあった。これに、ピッタリの言葉があるのは分かって、しかし、それが思い浮かばなくて、剣呑という意味なんだけど違って、ずっと悩みながら歩いていたらピンときた。「穏やかじゃないな」だ。階段を降りて、家に着いた。

ブログ「いらけれ」

どんどん暖かくなっていくのを肌で感じる。街を歩いていると、白い花が咲いた木に出会う。足を止めはしないものの、目を奪われる春だ。

言ったことと言われたことの他に、思ったけど言わなかったことと思われたけど言われなかったことがあり、私は、陰口が気にならないタイプの人間というか、私の視界の外に世界はないと思っているクレイジーガイなので、何を思われていても言われなければ平気なのだけれど、思ったけど言わなかったことは、ずっと胸でぐずぐずしている。双方が思っただけのことは、双方に伝わらないという仕組みが平和を作っている。それは理解しているつもりだ、しかし、内心の自由によって込み上げてきた感情が、私を苦しめる。これを言ったら傷付けると分かって、それを言う勇気はない。
この世に放たれなかった言葉について、それが口に出されていた場合を想像することはできても、実際にどうなっていたかを知ることはできない。政治的な正しさにしても、セクハラやパワハラにしても、それこそ"誰も傷つけない笑い"にしても、それらが意識されるようになった結果としてブレーキがかかり、封じられた口があるはずだ。そう、つまりその声が出ていたら、どのような影響を与えたかを知ることができないからこそ、人々は息苦しいと感じてしまうのではないだろうか。言葉を飲み込まなければならない息苦しさのおかげで、誰かが傷付かずぐっすり眠れたり、あなたの心の平穏が保たれたりしているのかもしれない。しかし、その見えない恩恵を実感するのは、とても難しいことだ。効果を正しく見積れず、過小評価してしまう。

“誰も傷つけない笑い"については、枡野浩一氏のつぶやき()に共感した。確実に誰かを傷つけると分かっていて、笑いのために何かをするのは人として間違っているし、人を傷つけないでも笑いが取れるなら、それを選んだらいいじゃんって思う。加害者側に立たされたくないという話は、『なぜあの人はあやまちを認めないのか』における自己正当化の問題と綺麗につながる(あの本、かなり重要だったのではないか?)し、もっと言えってしまえば、杉田俊介氏の有害な男性性と被害者意識、傷つきやすさにまつわるツイート()ともリンクしているように思う。
ここまで考えて、まだそれでも、何かを言えるほどではないと思い、もっと脳内で練ろう、そして知見を広げていこうと決める。そこまで真剣にならず、適当な言葉にしてしまった方が楽なのに、そうしたくないと拒否する理由は美学しかない。

ブログ「いらけれ」

今の私が物凄く落ち込んでいるのを私は分かって、しかし、その理由が上手く掴めないでいて、人々の愚かさにうんざりするのは常だから、おそらく身体的な不調によるものだと考えているのは、長く日記を付けるなかで得た知見がそう教えているからだ。気温や湿度、もしかしたら気圧が、花粉症は確実に、とにかくそういったものから、運動不足や体重増加によって内側から潰れるような、もっと対処しようのない、何かしらの偶発的な病が身に降りかかっているのかもしれない。心が動く前に立つ腹が、のぼせる頭が心を動かしていると知ること。深呼吸の後、ストレッチでもしなさい。

これだけ進歩した時代に、あったこともないと言えばなくなるような、合理ではなく信仰が勝つのか、これがいわゆる再魔術化なのかもしれないが、そうした時代精神に興味があるというか、そちらにしか興味がない。信仰に生きる人々に合理化せよと言って合理化するのならば苦労はない、言っても仕方がないのならば、仕向ける方法を考える他ないのだから。

覚えていたはずのことも忘れてしまったなあ。いろんなことを考えていた気もするが。ボートレースには、どの選手をレースに起用して、どの枠に配置するかを決める"番組マン"と呼ばれる人がいるらしいと知り、まあ、少し考えれば、誰かが決めなければならないことぐらいは分かるとはいえ、世の中にはさまざま仕事があるのだなあと思った。やってみたいけれど、なり方が一切分からない。あと、死亡事故が少なくない競技であることを知ってレースの見え方が変わったり、笹川良一が設立に重要な役割を果たしていたんだ、へーと思ったりした(日本史は苦手だけど、戦後史には興味がある男)。お金をかけていない今が一番楽しい……とは言わないけれど、幸せなのは間違いないだろうな。
それで、夕方のニュースでは中居くんが会見をしていた。矢野利裕さんはどう見たのだろうと思った。あの砕けた雰囲気の会見は、キムタクには出来ないものだろうなと思った。アイドルのほとんどは、自分たちで組んだわけではなく、誰かに集められたグループだ。『少年ハリウッド』が好きな私でも、こんな単純な事実を失念してしまいがちだ。何の因果か集められた彼らに、私は、もしかしたらあなたもそうかもしれないが、なぜ仲良くしていてほしいと思うのだろう。強い絆で結ばれていてほしいのだろう。クラスの同級生や会社の同僚といった偶然の隣人が、これほどまでに嫌いな私たちなのに。いや、それほどまでに嫌いだからこそ、彼岸の存在である彼ら(アイドル)には、仲良くしていてほしいのかもしれないと、そう思った。